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 はじめての方のための聖書のお話, 2008.05.28 Wednesday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
マタイによる福音書25章31〜40節 
「隣人になる〜人と隣り合うこと〜」吉岡契典牧師
 
 今朝の礼拝のテーマは、「隣人」というテーマなのですけれども、これは普段はあまり使わない熟語だと思いますが、私たちは「隣人」という言葉を考える時に、またこの「隣人」という言葉が示すように、「人と隣り合う」ということについて考える時に、私たちはそれを普段どのように捉えているでしょうか?
 あのノーベル平和賞を得た、有名なマザーテレサは、先程朗読された聖書の言葉に語られていました教えそのままに、「最も貧しい人の中にキリストがおられる」とか、「神は苦しむ人の姿を取っておられる」という言葉を繰り返し語りながら、そこに神様の存在を彼女は常に見るようにしながら、インドの貧しい人々の中に積極的に入って行き、その人々の支援のために生涯を捧げました。マザーテレサは、初めてインドのカルカッタの道ばたで、そこに死にかけている人を見たときに、自分はあの人たちのそばにいたい、と心から願ったそうです。私たちに、隣人をそのように見つめる目はあるでしょうか?

 なにもインドまで行かなくとも、仙台駅前を少し歩けば、路上や階段に寝そべっている人を、私たちは見ないわけにはいきません。しかし多くの場合、路上に寝ているようなその人々は、そばにいてあげたいと思えるような対象というよりも、むしろ恐れの対象であって、危険な存在、近づきがたい存在として、私たちの目に映るのではないかと思うのです。マザーテレサの逆です。私たちの多くにとって、その時その人たちは、そばにいたくない、見て見ぬふりをして逃げ去りたい対象になっているのだと思います。そのように、私たちにとって隣人とは、今や親しみを感じる相手と言うよりもむしろ、警戒感をいだく相手になってはいないでしょうか?

 隣人という言葉は、英語ではネイバーという言葉で、これは近いということ、近さを意味します。そして日本語では、隣り合う人と書いて、隣人と読みます。私たちはいつも、確かに沢山の人に、囲まれてはいるのですけれども、しかしその中で、本当に近く人と隣り合うということが、出来ているでしょうか?聖書の中には、この隣人という言葉がたくさん出てくるのですが、聖書は、人と人とが物理的に近いという状態、空間的に近くにいる状態を指して、それを隣人だとは呼びません。聖書は、物理的に近さが隣人関係を成立させるのではなくて、そこに愛が通い合っているかどうか、ということをもって、そこに隣人関係が結ばれているのか否かを、測っているのです。
 
 確かに、都会の雑踏の中に入ると、とたんに沢山の人に囲まれて、沢山の人と空間的には近づき合うことになるのですが、その雑踏の中に、私たちは隣人を見つけ出せません。私はたくさんの人々の雑踏の中を歩きながら、沢山の人と隣り合っていながら、しかしそういう時にこそ自分は今一人なのだなと強く感じます。周りには確かに人がいるのですが、だれも私を気にも留めませんし、私にとってもその時それらの人々は、半分人と映っていないというか、モノとか、背景とか、自分が歩くのを妨げる障害物のように映ってしまいます。
 そして孤独ということを考える際にも、自分が物理的に一人でいるときよりも、周りにたくさん人がいる中で孤独を感じるときに、かえってその孤独の方を、より深い孤独として味わう場合がありますし、その時にこそ、言いようもない絶望的な孤独を味わうということがあります。そう考えますと、確かに聖書が語っていることは真実だと思うのです。いくら周りに人がいても、その人と、人間として、人格として隣り合っていなければ、そこに何人人がいようと、隣人がいない。たくさん人がいても、その人間と向き合えていない。孤独だ。という状態になるのだと思います。

 そして、その聖書の規準で考えますと、私たちが、今本当に隣人として、私たちが近づいて、隣り合って、愛を通わせる相手という意味での、隣人は、そういう人との隣人関係は、実はそれ程多くないのではないかと思います。
 これはいつの時代においても当てはまることなのかもしれませんが、ひょっとすると今の私たちの社会は、特に隣人を作りにくい社会なのかもしれません。助け合いという部分がどんどんと減っていて、いわゆる、世知辛い世の中になってきています。自己責任という言葉が叫ばれますし、実際高齢者になっても、最後の最後まで自分自身で生きていくことが求められています。その中で私たちは、自分で自分の責任を負うだけで、もう精一杯で、とても他人の人のことなどにかまっている余裕はありません。そこで力があって勝てる人は勝ち組と呼ばれることが出来ますが、そうでない人は負け続けてしまう。今や隣人は、その勝ち負けを競相手になっています。負けないために、勝つために、人のことなどにかまっていられない。むしろ、人を蹴落としていかなければ、自分の未来が開けていかないというような、そんな考え方に縛られてしまいます。そこでの隣人とは、隣り合って支え合い、愛し合う対象としての隣人と言うよりも、隣り合って張り合う相手、競争し合う相手という意味での、隣人になってしまいます。それが市場経済の原理なのですが、市場経済の原理のようなものが、人間関係のなかに、友達関係や、家族関係の原理にまで入り込んで来ているように思えます。これがもっと進んでいくと、しまいには隣り合い、すれ違うあらゆる人が、自分を脅かす無数の敵にさえ思えてきてしまうという、私たちの社会の現実があります。

 そんな中では、私たちは、人と隣人になるどころか、その存在を拒否して、そこから離れ、自分の殻に閉じこもることによって、自分を守るようになると思いますし、自分の時間や、力や、お金や、そして自分の心の中にある愛情を、他人のために注ぐことの意味が、そこでは分からなくなる。なぜそれが大事なことなのか、必要なことなのかが、分からなくなってしまう。そして隣人のために自分の心を開いていくことが、怖いことになる、それが、今とても勇気を必要とすることになってしまっているのだと思います。

 そして実際に、相手を一人の人間として重んじて、愛情を持って、他人と隣り合っていくということは、難しいことです。それは、少なくとも私にとっては、とても勇気の要ることです。自分を他人に対して自分自身を開いていけば開いていくほど、その時には自分自身を相手にさらしていくことになりますので、自分の心が傷つけられやすくなりますし、実際に傷つきます。
 他人との関係というものは、必ずしもいつもうまくいくわけではありません。こちらの思い通りに他人が動き、感じ、振る舞ってくれるわけでも全くありませんし、自分にも相手にも、お互いの思いや、要求や、譲れないと思っているものがありますから、そこでは、とても小さなことから大きなことまで、色々なレベルで、裏切り、裏切られるという行き違いが、衝突が起こります。
 そして大して重みのない人や、ほとんど関係のない、気にも留めない人に裏切られても、それはそれ程こたえることはないのですけれども、逆に自分が大切に重んじている、人間として向き合い、信頼している隣人に裏切られたり、衝突するのは、小さくないショックですし、辛いことです。そのショックや辛さを味わうのが怖い故に、人と深く関わり合うことを差し控えるということも起こるのだと思います。

 そしてもう一つの課題として、具体的に人に寄り添おうとすればする程、そこでは、相手の求めにうまく応じられない自分、相手にうまく寄り添えない自分が否応なく見えてきてしまうという問題があります。私は、他人を信頼して、他人と隣り合う隣人として付き合う中で、自分の身勝手さや、自分が、実は自分で思っていた以上に、あまりにも自己中心的で、相手に与えるだけの愛情など、実は持ち合わせていなかったということに気付かされます。相手を、愛情をもって見つめていこうと本気で思えば思うほど、その願いについていけない自分自身の愛の足りなさを、赦したり、寄り添おうとすることの足りなさを痛感することになってしまって、自分自身に失望し、幻滅し、そこで正直、へこんでしまう。落ち込んでしまうことがあります。
 そして人と隣り合うことがを難しくさせている一つの大きな要因は、ここあるのだと思います。隣人を見つめるということの中で、実は自分自身が見えてきてしまうのです。それも自分の足りなさや、貧しさや、コンプレックスなどの、自分でも見たくない部分が、露わになってくるのです。それがとても怖いので、私たちは他人に心を開くのが怖かったり、自分の弱さを隠して、人の目にも、自分の目にも触れさせないようにするために、人に対して自分を開かないで、自分の殻に閉じこもったりしてしまうのではないかと思います。

 今朝お読みさせていただきました聖書の言葉の、マタイによる福音書25章40節で、主イエスは、「小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言われて、小さい者と、本当の隣人関係を結ぶ者でありなさいと語られました。これは、本当に私たちが自分を問われる様な言葉です。小さい者を見つめて、小さい者と隣人になることは、小さくない者と隣人になることよりも、より難しいことだからです。
 なぜなら小さい者を助けることは、先程の市場経済の原理で考えていくならば、自分にとって得にならない損なこと。余計なこと。煩わしいことに思えてしまいます。なぜ自分がそんなことをやらなければならないのかと思ってしまいます。そして、自分より小さな者に何かしてあげるという時には、目上の人のために何かすることよりも、強く、大きな愛が必要とされます。だからこそ、先程の、自分に愛がない。それほど他人のことに親身になり切れない自分の薄情さというものも必ずそこで顔を出してきて、自分を苦しめます。そういう自分の弱さが、そこでさらに掘り起こされていくことになりますので、私たちにとって、それはなかなか出来ない、とても難しいことになります。

 けれども聖書は、他ならぬ神様が、その小さなものへの愛を、私たちを愛するということをもって、まず実践してくださったのだと語ります。私たち人間のために、この神様から見て本当に小さな者のために、神様は惜しみなく愛を注いで、御自分の神としての身分を捨てて、イエス・キリストという今からおよそ2000年前に実在したユダヤ人としてのひとりの人間になってくださいました。神の御子、主イエス・キリストがこの私たちのこの小さな肩の、すぐ隣りに身を置くまでのところに来て、実際に私たちが踏んでいるこの大地を踏んでくださって、同じ人間として、私たちの隣人となってくださった。隣り合ってくださったのです。その、神様が人間になるということが実現した記念日が、クリスマスです。そして主イエスは、その生涯の終わりに、十字架に架かられましたけれども、あの主イエスの十字架の死は、何か主イエス御自身の過失で殺された死ということではなくて、神様が隣人として、人間として、神様が私たち一人一人を大切にしてくれて、愛し抜いてくれたということの動かぬ証拠としての死です。私たちの罪の全てを完全に赦して、生涯の終わりの悲惨な死からも救ってくださるために、主イエスは十字架にかかられました。十字架は、神様から私たちへの死ぬほどの愛の現われです。私は隣人のいない、友のいない孤独な私なのではなくて、この聖書を開いて分かることは、実はこの私にも、私を愛するあまり、私のために命まで惜しまなかった隣人がいた、友がいた。そして神様が、神の御子、主イエス・キリストというその方が、小さな私に寄り添ってくれている隣人だっただったのだということです。

 今世界的な災害がアジアで起こっていて、「人道的支援」という言葉が新聞にも多く載っていますけれども、「人道的」という言葉は、どういう言葉なのかなと、ふと思いました。人道とは、人の人たる、人が歩むべき道という意味ですから、困っている人がいれば支援するということが、人道的支援であり、それが人の人たる歩むべき道ということになるのでしょうけれども、困っている人への支援というのは、人の道なのかというと、今朝こうして具体的に、考えてきましたように、また自分自身にとっての弱い人々との今の関わりから具体的に考えてみますと、必ずしもそうはならないのではないかと思います。
 人は口では簡単に「あの国は人道的支援を受け入れることが大事だ、被災地は何をやっているのか」などと言いながらも、しかし実際には自分自身、弱い人々に巻き込まれることを恐れて、彼らの隣人になることを避けて、困っている人を見ても、助けるどころか、そのことによって自分自身が被る物質的、精神的危険の方を先に考えてしまいます。そして依然として、強い者に憧れ、強さに、小ささではなく大きさに価値を置いている自分がいます。弱者を援助するにしても、どこかで見返りを求めている部分がある。そして実はこれが、実際のところの、暴露されてしまえばそこに現れるであろう、剥き出しの人道、現実的な人の道なのではないかと思います。
 けれども、人道的という言葉に対して使うならば、「神道的」とも言うべき、神様の道が、聖書には記されています。それは、全くの見返りを求めない神の愛であり、全くそれを受ける価値も、受ける理由もないような小さな者に、しかし神様は、キリストの命の犠牲と引き替えに、罪の赦しと死によっても滅ぼされない、永遠の命を与えてくださいました。そしてこの神の道が、神様からの神道的な「初めの愛」が、主イエスによって小さな者に注がれているということを知った者こそが、その愛に触れた人間の道こそが、愛の方向に正しく軌道修正されていく。この神の道を知ったときに、そこで初めて、人の道は、受けている愛を与えていく、愛の勇気に生きる道へと、変えられていくのではないかと思うのです。冒頭で引用したマザーテレサも、この主イエスから、人を愛していく勇気を、生涯のうちで絶えず与えられながら、それに支えられてこそ、豊かな活動を行なった人なのです。

 弱い人々を助けることは、それは人道的に正しいことだから、それを為せとは、聖書は言いません。主イエスは40節でこう言われたのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
 主イエスは、小さな者への愛に取り組む者たちを、高く評価してくださっています。主イエスは、その難しい課題に取り組む私たちを、放置されるということはなさいません。主イエスは、私たちのこの葛藤、この具体的な苦しみを見ておられて、それを高く評価して、天国を受け継がせてくださると宣言しておられます。自分に愛がない。うまく寄り添えない。限界を感じる。誰か助けて欲しい。実際そのようにして、この愛することの苦しみを私たちは味わうのですけれども、しかし、その愛の葛藤の中で、たくさん失敗しながらも、何とか歩んでいるという、その姿そのものが、実は愛に生きている者の具体的な証しに違いないのだとして、主イエスはそれを評価してくださる。小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことだ。と言ってくださるのです。
 そして私たちは、そこでこそ、愛とは何かということを体験的に知ることが出来るのです。そして、自分が今どんな愛で神様から愛されているのかについても、それをリアルに知ることができますし、さらにそこでこそ私たち自身、愛を豊かに与えられることが出来ます。
 聖書が伝える一番の中心テーマであり、私たち人間が出来る一番のこと、これだけは永遠に残ると、聖書に書かれている、愛するということの醍醐味は、実はこの、小さな者と隣人になるということによって、そこに現れる。そこでこそ味わえるのです。他ならない神様も、その道を選ばれたからです。小さな者を選んで、愛してくださる神様が、この聖書の神様です。この神様が、この種類の愛を注いでくださる神様だからこそ、今私たちは、礼拝に招かれているのだと思います。大きな者をだけ愛される神であるならば、まずこの私を筆頭に、この場所からはじき出されて行かざるをえません。

 小さな者の隣人となるとき、私たちはそこで、神様の愛に出会うことが出来ます。そして愛において、与えるということは同時に、それ以上に与えられるという面を含んでいます。これも市場経済の原理とは違うところです。与えたら無くなるのが愛なのではなくて、愛は、人に与えることによってこそ、自分の中でますます豊かにされていくものです。
 私には1歳の娘がいるのですけれども、私の妻は、本当に母親らしく、自分のすべてを娘に捧げ切るかのようにして、娘を愛して、世話しています。母親の愛の深さに、私はいつも驚かされます。けれども、見ていて確かに分かるのは、そのことを通して母親の愛は空っぽになるどころか、母は子どもに与えているもの以上のものをそこから得て、とても喜んで生活しているのです。愛することによって、彼女の中には元々なかったような、とても強い支えを、彼女は得ているのです。そして、ちょうどそれと同じように、隣人を愛をもって見つめる時には、そのことの中に、既に豊かな神様からのギフトが与えられてくるのです。

 そこには他には代えがたいような愛に生きることの手ごたえがありますし、それがたとえ私たち自身が忘れてしまうぐらいの小さな、愛を与えることのできた、ほんの一瞬の、瞬間的な営みであったとしても、主イエスは必ずそれを見て、覚えておられて、私たちの小さな働き、小さな業を、それを全て拾い上げて、大きな愛の業を成し遂げたと言って、「これはわたしにしてくれたことだ」と言って、心から喜んでくださるのです。
 面白いことに、今朝の御言葉の中で主イエスが褒めておられる人々は、首をかしげています。彼らは、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」と言って、彼らは自分が小さい者に行なったことを覚えていないのです。けれども主イエスは、私のような者の人生からでも、自分でも、もう忘れてしまっているような小さな所からでも、私たちが行なったことを見ていて、それを全て残ら拾い集めてくださり、主イエスは私たちの罪やマイナス点を、すべて御自分の十字架の犠牲によって、相殺してしまわれましたから、悪いところや、愛に失敗したところはもう見ないで、すべて赦してくださりながら、そして主イエスは、良いところだけ取って、そこだけを見て、「よくやった」と、「ありがとう」と言ってくださるのです。小さな教会、小さな働き、小さな信仰、小さな一人一人。自分でも忘れてしまうような小さな業。けれどもそのすべてを主イエスは拾い集めてくださる。私たちのそして想像を超えた祝福で返してくださいます。

 そして聖書は、この私たちの人生は、この主イエスによって測られると語っています。私たちの人生は、私たちがどれだけ大きなことをしたか、どれだけ人に勝ったのか、負けたのか、ということで測られるのではありません。罪を赦して、私たちの罪に目を留めないで、本当に肯定的に、小さな私たちを大切に見てくださる、この主イエスに見守られる。この主イエスに隣り合っていただきながら、それに支えられて、人とも隣り合う人間として生きる。ここにそ、人としての私たちが、喜んでいきることのできる、真実な人の道が示されているのだと思います。

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