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 はじめての方のための聖書のお話, 2015.03.31 Tuesday, trackbacks(0), by:sendai-canaan


 私は両親がクリスチャンの家庭に育ちました。小さい頃から、聖書のことは聞いていましたが、中学生から大学2年生の頃まで、私は教会にはいかず、キリスト教とはほとんど無関係な生活をしておりました。
 そんな私でしたけれども、あるきっかけがあって、教会に通うようになりました。そのきっかけは、バイクの交通事故でした。私は、学生時代、中型のバイクに乗っておりまして、ある日、アルバイトの帰りに交通事故に遭いました。
 何とか命は守られましたが、けががありましたので、しばらくは何もできない状態で、家にいました。そのときに、何もすることがないので、親に誘われ、教会に行ってみたんですね。そのときは、ずっと通うつもりはありませんでしたが、不思議と教会に通うようになりました。
 そして教会に行く中で、確かなものっていうのはあるんだな〜というのがわかったんですね。「何のために生きるのか、何のための人生なのか」その答えは、わからなかったんですけれども、教会に行くようになって、わかった、と知らされて、本当にうれしかったんですね。
   確かなものがあるんだ、そういう確信ですけれども、これは今日の題名にありますように、「死のかなたには希望があるんだ」っていうこと、これも確かなことのひとつです。
 今日お読みしました、新約聖書の箇所は、そのことをはっきりと言っております。今日は、その出来事の一部分だけをお読みしましたが、死で終わりではない、そのことを今日のこのエピソードの全体をまずお話をして、それからこの物語が何を、私たちに伝えようとしているのか、それをご一緒に確認していきたい、と思います。 
 まずこの物語には、三人の兄弟姉妹が登場します。マルタ、マリア、ラザロという三人で、彼らはみな主イエスと大変、親しい関係にありました。彼らは、ベタニア村、という村に住んでいました。 この男兄弟の、ラザロはある時に、大変重い病気にかかりました。その時に、何とかして、このラザロを助けてほしい、と二人の姉妹は考えまして、そこで彼女たちは主イエスに助けを求めようと、思ったわけです。

 この時、主イエスは、遠いところで、お働きをなさっていましたので、マルタとマリヤは主イエスに使いを出します。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です。すぐに来てください」 それを聞いた、主イエスは、なぜか、それを聞いても、このとき、すぐにはいらっしゃらなかったんですね。遠く離れている伝道地で二日間滞在された、といいます。
 
 そして二日経ってから、主イエスはマルタ、マリヤのもとに、弟子たちを連れていかれたんですね。そのときには、もうすでにラザロは死んでいました。しかし、主イエスは、ラザロが死んでいることをすでに知っていました。ですから、そこで、主イエスは弟子たちに言いました。
 「私たちの友ラザロが眠っている。しかし私は、彼を起こしに行く」と。弟子たちは、主が眠っているとおっしゃったので、文字通り、眠っているのかな、と思ったわけです。そうすると、主イエスは、いやいや眠っているというのは、これは死んでいる、という意味なんだ。死んだラザロをこれから、私は起こしに行くんだ、こうおっしゃったんですね。

 こうして、主イエスと弟子たちが、ユダヤのベタニア村に行ったときには、ラザロは死んで、四日経っていた、と言われています。4日経っているのを、見計らってという感じで、主イエスは、死んだラザロのところに行きました。
 わざわざ主イエスは、4日間をつくるようにして、それからマルタ、マリヤ、ラザロのところに来られたんですね。
 姉のマルタは、主イエスが、いらっしゃると、すがりついて、泣いていいました。「主よ、あなたがおられれば、私の愛する弟は死ななくてすんだのに。どうして、もっと早く来てくださらなかったんですか?」

 そうすると、主イエスは、「あなたの兄弟ラザロは、復活する」そうお応えになりました。そして続けざまに、おっしゃいます。「私イエスは、復活であり、命である。私イエスを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、私イエスを信じる者は、誰も決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じるか?」 唐突な言葉です。しかし、非常に力に満ちた言葉であります。

この主イエスのお言葉に対して、マルタは答えました。
 「はい、主よ、あなたは世に来られるはずの神の子、メシア・キリストであると、私は信じております」 私イエスは、復活の力そのものである、死んだ人をよみがえらせる力、実力を持っている、命の源である、復活の力そのものがこの私である、こう主イエスは、マルタに伝えたんですね。これが私は復活であり、命である、という言葉です。
 そのご自身のおっしゃっていることを、それは本当なんだぞ、と実証されるようにして、そのためにラザロのお墓に主イエスは行かれました。そこで、主イエスは、マルタに、「その墓石をどけるように」命じるんですけれども、マルタはいいます。「主よ、そんなことをおっしゃらないでください。もう死んで4日になりますから、遺体は腐ってしまっている、くさくなってしまっている。ですから、この墓石を取り去らないでください」
 こうマルタはいうんですね。主イエスは、さらにおっしゃいます。
「もし信じるなら、神様の栄光が見られる、そう言っておいたではないか!」こうおっしゃて、主イエスは、天を仰いで、父なる神様に祈り、そして、大きな墓の扉石が開かれた、その中に向かって、大声で叫ばれました。「ラザロ出てきなさい!」
 そうすると、当時の習慣に従って、布でグルグル巻きにされた状態で、とびはねて出てきたのか、はってでてきたのか、わかりませんが、ラザロが生き返って出てきた、というんです。
 
 
 これが、今日の全体の物語のあらすじです。今日は17節から27節しか読んでおりませんが、その前後のエピソード全体です。このエピソードが何を伝えたいのか、聖書はこの物語によって、何を私たちに知らせようとしているのか。これはこういうことです。
 「主イエス、というお方は、4日間経って、腐って、もうにおいがきつくなっている、そういう肉の塊に、もう一度命を注いで、生き返らせる、そういう実力を持っていらっしゃる」そのことを、聖書は私たちに伝えようとしています。
 この時、ラザロは、生き返らせられました。生き返らせるというは、どういうことか、といいますと、ラザロはやがてこの後死んだはずですね。ラザロは、いつ、どこで、どういう死に方をしたか、そこまでは聖書は教えていませんが、当然ラザロは、10年経ったか、20年経ったか、わかりませんが、死んでいます。

 ですから主イエスは、ここで復活といいましたけれども、キリスト教でいいますと、復活というと、また違った意味がありまして、ここで腐った肉の塊となっていたラザロが、墓から起きあがって出てきたというのは、厳密にいうと、これは生きかえった、生き返らされた、やがてまたラザロは死んだわけです。

 生き返らされた、というだけでも、これは大変な出来事なんですけれども、しかし、主イエスがここで、人々に知らせようとなさったのは、主イエスを信じる人は、単なる生き返りではなくって、今度は死なない、栄光の身体によみがえらせられる、私はそういう実力を持っているんだ、そういうことをお示しになりたくって、腐っていたラザロを生き返らせられたんですね。
 そのことで、実は、もう永遠に死なない、栄光の身体につくりかえる、そういう実力を私はもっているんだ、「私は復活であり、命である」このラザロの生き返りを見て、あなたがたは、そのことを信じなさい、と主イエスはおっしゃったんですね。
 
 牧師の仕事をしていますと、多くの普通じゃおそらくできないであろう、経験をいたします。特に、私がそのことを経験するときがあります。それは葬儀の時です。私は、この教会に来てから、何度か葬儀のお世話をさせていただきました。 葬儀のお世話というのは、いわゆる「式」のことだけではなくて、天に召されようとしている方の最後のときをお祈りによって支える、そして天に召されたとき、遺族の方の慰めを祈り、葬儀の準備をし、棺にお入れする、それから火葬し、納骨する。こういう風に、人生の最後の時を、ご一緒させていただく、そういう御世話をします。

 私は、この教会に来て、何度か、葬儀のお世話をさせていただきましたが、そのときに、あるいはすべてが終わった後に、多くの方がおっしゃってくださる言葉が、とても印象に残っています。不思議なことに、みな似たような言葉です。どういう言葉かというと、「キリスト教の葬儀は、本当に平安と希望にあふれていて、慰めを与えられました」という声です。希望にあふれている、こうおっしゃるんですね。そうおっしゃるのは、クリスチャンの方だけではありません。葬儀に来られる方は、そのほとんどがクリスチャンの方ではないですね。お家は仏教で、キリスト教にあまりなじみがなくて、はじめて教会に足を運んだ、という方々がたくさんいらっしゃいます。そういう方が、「希望を感じました、慰められました」、こうおっしゃってくださいます。不思議なんですけれども、みなそういう風におっしゃるんですね。
 
 どうして、こういう風におっしゃるんだろうな〜、時々考えます。キリスト教の葬儀は、教会でします。この教会は、きれいですね。建物がきれいだと、気持ちがいいです。建物がいいから、慰められるっていうことがあるかもしれません。
あるいはキリスト教の葬儀では賛美歌うたわれます。賛美歌が素敵だから、慰めを与えられるっていうことがあるかもしれません。そのほかにもいろいろな理由が考えられます。でもキリスト教の葬儀には、もっと根本的な、私たちの心に届いてくる、希望があるはず、慰めがあるはず、なんですね。私は、それは、天国の希望。死のかなたにある、主イエスが肉の塊を復活させる実力をもって、天国へと招き、やがて本当に復活させてくださるという希望、この聖書が証をしている希望、であると思います。
 
先月、私は、私が奉仕をしているもうひとつの教会が白石にありまして、この白石の教会員、この方は86歳でいらっしゃいましたが、その方の葬儀をお世話させていただきました。その方は、心臓の大きな病気をされてから、約10年間、命が支えられて、闘病生活をされていました。
天に召された日は、日曜日朝でした。朝6時ごろでしょうか、昇天されたという御電話をいただき、すぐに病院に私は行きました。そこには、その前の夜から、一緒におられた奥様と、妹さん夫婦がいらっしゃいました。私はみなさんと一緒に、ベッドの横でお祈りをさせていただきましたが、そのあと、奥様のおっしゃった言葉が、いまも心に残っています。

「先生、お父さんはやっと天国へ行くことができました。お父さん、大変だったから、いまは神様のもとできっとホッとしていると思います。私もいつか天国で、お父さんと会える日をたのしみにしながら、イエス様を信じていきたいです。」

そのときの奥様の表情は、悲しみというよりも、平安に満ちていらっしゃいました。奥様だけではありません。そのご家庭は息子さん、娘さんもクリスチャンでいらっしゃいますが、みな同じく平安でおられました。そのご家族と一緒にいると、なんだか安心し、かえって慰めをいただくような気が、私はいたしました。
 
死を前にしたときに、私たちは無力です。誰もがそうです。死に勝てる人はいません。しかし死を前にしたときでさえ、無力で終わらない、死でも覆い尽くすことのできない希望があるんですね、その希望は、主イエスが私たちに与えてくださる復活の希望、主イエスがおられるなら私たちは天国に行ける、そういう希望です。この希望があるなら、死を前にしても、なお豊かに生きることができるんですね。
 
 死のかなたには希望はある、やがて栄光の復活の身体を私たちはいただくことができる、クリスチャンはこのことを信じて、教会に来ております。信仰生活をしています。ですから死が終わりではない、復活という希望があるんだ、教会ではよくいうんですね。
 復活というのは、ただ生き返るんじゃないんですね。ただ生き返るだけなら、いつかはまた死にます。そうではなくって、もう永遠に朽ちない身体、なくならない身体、年をとって、あっちやこっちが痛くならない身体、そういう身体に造りかえる、そういう希望を持っている、復活の希望、それを私たちは、それを教会で語り続けています。
 
 でも復活といっても、もしここにはじめていらっしゃる方がおられるなら、すぐにはピンとこないかもしれません。日本にいると、復活、身体のよみがえり、と言われても、あんまりピンとこないんだと、思いますね。 でもこれはあんまり聞きなれていないから、ですね。日本は、クリスチャン人口が1パーセントですので、ほとんど聞く機会がないといってもいいと思います。あまりに少ないです。ですからそれは仕方ないことだと思います。すぐには難しいかもしれません。

でもお伝えしたいのは、その中で復活を信じて生きた日本人がいた、ということです。そしてその証が残されています。ひとつ紹介しますと、新島嬢という有名な方がいます。京都の同志社大学の創設者ですね。この間、NHKのドラマで、「八重の桜」というドラマがやっておりましたが、その主人公新島八重の主人の新島譲は、死ぬまぎわに奥様にこう言ったんですね。「グッバイ、また会おう、」「死が終わりじゃない、やがてまた会おう」言ったんですね。やがて体は復活し、また会える、そう妻に語ったんです。愛するものと、再び会える、その希望を最後までもっていたんですね。これはドラマでもうつされましたので、大変有名なお話です。
 
 人生は長くても、100年。あるいは、100年ちょっとですね、健やかに生きたとしても。でも100年っていうのは、長いようで短い、と思います。 時が経つのはあっという間ですね。気付いたら、もう50代になっていた、60代になっていた、80.90になっていた、こういう方もいらっしゃるんではないか、と思います。 私は、まだ30代ですが、きっと時間はあっという間にすぎるんじゃないか、思います。妻や、教会の方、地域の方と、あとどれだけ時間を過ごせるのだろうか、考えますときに、ちょっとさびしい気がすることがあります。 さらに不慮の事故があるかもしれない。病気にかかることもあるかもしれない。本当に、そう考えると、私たちの地上の人生、命は、はかないといいましょうか、短いといいましょうか、不確かなものです。
 
でも聖書は言いきっています。「死が終わりではない」主イエス・キリストは、私たちの身体を決して朽ちることのない、栄光の身体につくりかえる実力を持っておられる、そういうお方がいらっしゃる、  その方を信じて生きる、これは本当にいいお話だと思います。 主イエスを信じるだけで、栄光の身体、愛する者たちとの再会が約束されているわけですから、こんなにいいお話はない、私は語り続けたいと思っています。

死のかなたには希望があります。復活の主イエスを信じる人は、必ずよみがえらされます。今日はじめていらっしゃった方、あるいはこれからキリスト教を信じていこうかなと、考えていらっしゃる方、いますぐ、私が申し上げたことを、信じられなくても、結構です。

でもひとつ考えていただきたいのは、必ず私たちは死を迎える、ということです。でも、復活というものがあるんだ、と聖書は言っている、ということも覚えていただきたい、と思うのです。

願わくば、この事実、この真理、死のかなたにある希望、永遠の復活の身体を主イエスが私たちに与える、そういう実力をもっている、このメッセージに関心をもってくださり、本当かな〜、どうかな〜、もし本当だったら信じたい、そういう関心をもって、教会にき続けてくださいますように、お願いします。
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