RSS | ATOM | サイト内検索
 はじめての方のための聖書のお話, 2015.03.30 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
 

 わたしは、この教会の牧師の國安光と申します。2011年8月に仙台にまいりました。わたしは約25年くらい、東京で生活をしていました。わたしが聖書を読むようになったのは、大学生時代でした。
わたしは、学生時代、イタリヤ料理のコックさんになりたいと思っていたことがありました。大学生1,2年生の頃でした。いつか自分のお店をもって、人を喜ばせる人になりたい、そんな夢を描きながら、レストランでアルバイトとして、下働きをさせていただいていました。

 その頃、夢に向かって、働いて、勉強をして、充実した毎日を過ごしていました、でもいつも心にモヤモヤしたものを抱えていたように思います。わたしは、いつも人の目を気にして生きていました。人から見て自分はすごい人なんだろうか、輝いて見えるだろうか、そんなことばかりを気にしていました、きっと不安だったからだと思います、なんのために生きているのか、真面目に考えたことはありませんでした。でも、何かモヤモヤとしたものを、ずっとかかえていました。イタリヤ料理をしたいと思ったのは、そういう不安から逃れたい、どこかで思っていたからだと、いまは思います。

 あるとき、わたしは、アルバイトの帰りに、当時乗っていたバイクで交通事故にあいました。わたしは体をうち、2ヶ月くらい、療養生活を送りました。それから、何もできない期間がありました。そのとき、大きな不安がやってきました。「動けない、おれは、なんのために生きているんだ。なんのために存在しているんだ。」そのとき、蛇口から水が噴き出すように、これまで隠してきた不安が、一気にやってきたんですね、

でもそこではじめて自分と向き合うことができました、これまで何のために、料理をがんばってきたのか、人の目ばっかり気にして、だれかと比べて、自分を魅せたいだけにやっていたんじゃないか、結局は自分を愛せなくって、誰かに認めてもらって、そこで安心を得たいただけだったんじゃないか、そのこと気づかされたんですね。自分の存在がとてもむなしく感じました。自分は何のために、生きているんだろうか・・
 
 それから、教会に行くようになりました、わたしはそのときに感じた、礼拝の不思議なあたたかさ、自分が自分でいられる、そういう温かさを、いまでも覚えています。それから、だんだんと聖書に証されている、「神様」の存在を考えるようになりました、そして聖書を通して、生きる意味、生きる喜びとはどこにあるか、ということが、だんだんとわかるようになっていきました。
こうしてわたしは、この聖書のすばらしい情報を伝えたい、一人でも多くの方に、神様がくださる、生きる喜びを届けたい、思いまして、神戸にある、神学校に入学をし、それから約3年半後、牧師として仙台にまいりました。わたしは、この聖書の「喜び」を仙台の地でぜひ伝えていきたいと思っています。今朝は、その「喜び」について教えているひとつの物語から、お話をしたいと思います。

 
 この物語には、生きる喜びを知った、一人の男がいました。その名は、ザアカイ。ザアカイが喜びを知ることになった、決定的な出来事がありました。主イエスとの出会いです。

 今日の物語で、大変、心を引くのは、ザアカイが主イエスと出会ったのは、木の上であったということです。ザアカイはその木の上で、下から自分を呼ぶ声を聞いきました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」主イエスの呼びかけです。ザアカイが声をかけたのではない、主イエスが声をかけられたのです。これがザアカイの主イエスとの出会い、人生最大の出会いの訪れでありました。
 
ザアカイという人がどういう人だったか、いいますと、ザアカイは心につらい思いを抱えていた人でした。今日の御言葉を見ると、ザアカイは、徴税人の頭であったと、ありました。徴税人というのは、この当時、もっともヤクザな仕事と言われていました。国家権力を背後にもっていて、人をだましたり、ゆすったり、不正な取立てをして、私腹を肥やしていた人であります。嫌われ者だったんですね。ザアカイはその組長だったわけですから、もっとも厳しい目を向けられる人であったと思います。
 
 どうしてザアカイはこのような職業についたのでしょうか?それは聖書には書かれていません。想像するしかありません。もしかしたら、人生の紆余曲折といいましょうか、そのような中で、ザアカイは徴税人という仕事に行き着いたのではないか、と思います。 もしかしたらザアカイは、子どもの頃に何かつらいことがあったのかもしれません。背が低かったとありますので、いじめを受けたりして、何か、複雑なきもちを持っていたかもしれない。そういうつらい過去を跳ね返すために、「見え返してやりたい!」そういう思いで生きてきた、こうしてやがて徴税人になって、そして親分にまで上り詰めてしまったのかもしれない。

 そういうザアカイに注がれる目は、冷たいものだったはずです。誰も認めてくれない、あいつはだめなやつだ、その目は変わらなかったはずです。 ザアカイは、人の目なんか気にしないで生きよう、自分は自分だ、言い聞かせることもあったかもしれない。でも実際は、できません。生きている以上、人の目を気にしないではおれません。人の目を気にしないで生きよう!思っても、でもやっぱりどこかで気にして、苦しむことがあるんですね。人の目を気にすること自体が、悪いことであるとか、不健康なことであるわけではないと思います。生きている間に。いろんな人の目というのを、私たちは気にします。ただその人の目を、どのように気にするかによっては、わたしたちを不健康にすることがあります。
 
 わたしたちが人生で最初にであう、人の目というのはどのようなものがあるでしょうか?おそらく赤ちゃんの頃に出会う、親の目だと思います。お父さん、お母さんが目尻をゆるめながら、自分を見てくれている、そういうやわらかい目と出会うんだと思います。もしそこで安心した経験をすることができれば、それだけでも、人生は明るくなっていくかもしれないです。でも成長するにつれて、他にもたくさんの目があることに気づいていきます。友達の目、先生の目、近所の人の目、自分がいろんな思いで見られていることに、とまどいを感じるときがあります。そして、自分の親の目も、だんだんと変わっていく、自分が最初に感じたのとは違う、もっと複雑な目があることに気付かされていきます。期待を感じることがあると思います。自分は親の目にとって、良い子なんだろうか、悪い子なんだろうか、自分は親を喜ばせることができているだろうか、気にし始めるんだと思います。そしてそれを気にしすぎると、生きていくことがつらくなる、病気になりこともあります。

 ときどき新聞やニュースで、友達の目が怖い、親の目がつらい、社会の目がつらい、そのような中で、居場所を失ったり、そのつらさに耐えられなくて、命を落とす、子どもの悲しい知らせを目にすることがあります。本当に、つらかったんだと思います。人が幸せに生きるための方法というのが、よく本とか、テレビで言われます。おしゃれな服を着たり、素敵な家に住んだり、恋人をつくったり、いろいろあります。そのような巷で紹介されている、幸せは私たちの心を満たしてくれる面もあるかもしれません。でも、それはすぐに、メッキがはがれるみたいにして、落ちていきます。本当に幸せになれるわけではありません。
 わたしは幸せというのは、「あの人に見てもらっていれば幸せだ」そう安心できる人と出会うことがとても大切だと思います。他の人はどう私をみようと構わない、でもあの人だけは、わたしのことをやわらかいまなざしで見てくれている、あの人だけは裏切らない、真実のまなざしの中で安心することができる、そういう人と出会うことができるなら、きっとわたしたちは、豊かに生きていけると思います。
 
 そんな苦しむザアカイの耳に、ある日、ある方の噂が耳に入ってきたわけですね、それは主イエスという方で、この方がどうやら人びとに尊敬される人であること。主イエスは立派な教師であり、病人や障害をもつ人を癒される。しかも罪人や徴税人と食事をされる方でいらっしゃる。この方が、エリコという、ザアカイが住んでいた町にやってきている、この噂を聞いたんですね。

そこでザアカイは、少しでもいい、この人を見てみたい、できるものなら話をしてみたい、思いました。自分は徴税人。責められてもおかしくはない。いつものように冷たい目を向けられるかもしれない。それでも勇気を出していってみよう、出かけました。
けれども、主イエスのまわりには、人がたくさんいる、背も小さいですから、背伸びしても、ジャンプしても見えない、そこでザアカイは、イエス様が歩くであろう道に植えられている、いちじくの木を見つけます、いちじくの木というのは、10メートルから15メートルもある木・・その木に、走って登ったのであります。そのビルの3階ぐらいの高さにもなろう木の上から、ザアカイは覗き込むようにして、主イエスを待ったんですね。そこでザアカイは、木の下から、自分の名前を呼ぶ、主イエスの声を聞いたのであります。
 
ザアカイ、降りて来なさい
 
このときザアカイが聞いた、主イエスの声というのは、どういう響きをもっていたのかな〜と考えさせられます。どのような声として、ザアカイには響いてきたしょうか?それは冷たい響きだったでしょうか?きっとそうではないですね。ザアカイへの呼びかけについて、主イエスご自身のお言葉の中に、こういう説明がありました。
 
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節)
 
「人の子」という主イエスのことをあらわします。わたし、主イエスは、「失われたもの」を捜して、救うために来たのだ、こうおっしゃったわけです。「失われている」というのは、あるべきところから、遠く離れている、「失われている者」というのは、あるべきところから離れている者、ということをあらわします。
 
あるべき人が失われる、家族とか友人とか、これは悲しいことです。ここで主イエスは、そのような悲しみを語るんですね。これは神様の悲しみということもできます。神様のもとにあるべきものとして、造られた人間、その人間が自ら離れてしまう、神と共に生きるはずのものがいない。神様の悲しみです。
 
失われた者への悲しみ、主イエスはそういう思いで、ザアカイに呼びかけたはずであります「ザアカイ!あなたを、やっと見つけた。急いでおりてきなさい。今日、わたしはあなたの家に泊まりたい、あなたは失われた者だから。あなたが離れていること、神様のもとから遠く離れていることが、わたしにとっては本当に深い悲しみだ、お願いだ、降りてくるのだ。」
 
ザアカイは、このとき、どのような思いがしたのだろうか、考えさせられます。木の下から自分をじっと見つめている、主イエスのひとみ。そのひとみの中に、悲しみ、そして見つけた喜びを、ザアカイは感じとったはずです。
 
ザアカイは、そのまなざしに出会ったときに、これまで味わったことのない、温かさを感じたのではないかと思います。こんなひとみで、自分をみてくれた人がこれまでにあっただろうか?自分のことを、こんなに真剣に悲しみ、真剣に喜んでくれた人が、これまでひとりでもいただろうか?本当にうれしい、思ったはずです。
 
さらに主イエスはこうおっしゃいました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」家に泊まりたい、これは、もともとの言葉を訳しますと、「家に泊まることになっている」そういう強い表現、これは、主イエスご自身の決意というよりは、主イエスを地上に遣わしてくださった父なる神の決意を表す言葉であると言われます。ここにあらわされているのは、ザアカイを愛しておられる、神の喜び、主イエスのまなざしの強さです。ザアカイは、この強い、神の思い、喜びに触れて、本当にうれしかったはずです。主イエスをすぐに家に迎えました、おそらく一緒に食事もしたでしょう。いろんな話もしたでしょう。でも不思議なことに、聖書の本文には、こういう言葉を、こういう説教を聞いた、そんなことは一切書いていない。書いてもおかしくないんですけれども。
きっとザアカイにとって、もはや言葉はいらなかったんだと思います。主イエスがそこにいてくれるだけよい、それだけでわかったはずです、自分は、このお方に愛されている、主イエスの目が注がれている、もうそれで充分だったはずです。
 
私たちはどうでしょうか?もしかしたらザアカイのように、心に何かモヤモヤしたものをいつも抱えていて、生きる意味がわからなくって、何かをすることで、それを忘れようとしているかもしれない。
 
何か、ものを買ったり、旅行をしたり、仕事に命をかけることで、そのことを覆い隠しているところがあるかもしれないです。自分では気づかないところで、本当に安心できるまなざしを受けたい、神様の愛を、イエス様のまなざしを受けたい、そのような思いを、心のどこかにもっているかもしれないです。そのような私たちに、注がれる、本当に安心できる、「神様のまなざし」があるんですね。その目が自分に注がれている、私を見て丸ごとを愛してくださっている方がいる、それがわかるなら、きっと喜びが生まれてくると思います。
 
さてザアカイは、主イエスのまなざしと出会って、どうなったでしょうか?ザアカイは、心が変えられました。ザアカイは、そのあと、こういいます。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」(8節)財産を半分施す、さらにだましてお金をゆすり取った人には、お金を4倍にしてかえす、いうんですね。これは普通じゃ考えれない。財産がなくなるだけではありません。徴税人の組長という身分を失うかもしれない、もしかしたら仕事もなくなるかもしれない。しかも、おそらくザアカイが変わっても、たとえ善いことをしても、他の人の冷たい目は変わらなかったと思います。「急にいいことをして・・人に気に入られようとして、あいつはどうせだめなやつだ」皮肉を言われたり、冷たい目で見られることは変わらないと思います。ザアカイもきっと、そのことはわかっていたと思います。

でも!!立ち上がったんですね。いや、立ち上がらずにはおれなかった!!もうザアカイは、人に冷たい目で見られても、傷つかないんですね。恐れないんです。もうお金を握り締めなくてもいいんですね。自分の存在をそうやって、あらわそうとしなくてもよかったんです。

ただひとつ、自分に注がれている、絶対に変わらない、安心できる、主イエスのまなざしがある。自分は受け入れられている、愛されている、わかったからです。

ザアカイは立ち上りました!それはいままでみたいに、自分を誇るためではありません。自分を守るためではありません。主イエスのまなざしの中で、神様に愛される平安の中で、これまで自分を縛ってきた、お金や、誇りから、自由になったものとして、立ち上がったんですね。こうして、ザアカイは本当の平安を、幸せを見出すことができたのです。
 
このようなお話を聞くと、これはザアカイが特別だから、思うかもしれません。でも、そうではありません。ザアカイと共におられた主イエスは、同じように、私たちと共にいてくださいます。
私たちは立派でなくてもいいんですね、お金もちでなくてもいいんです、学校がうまくいかない、家族がうまくいかない、そういう私たちを、主イエスがここに招いてくださって、「あなたがいることが本当にうれしい!」、おっしゃってくださる。その語りかけを聴くことができるなら、私たちは主イエスがくださる喜びを、深く深く、味わうことができます。
そして、そのときに、私たちは自分を縛っているもの、名誉や、お金や、自分を満足させる思い、から自由になることができるのであります。神様の愛によって立ち上がる、新しい人生を歩みだすことができるんですね。
 
ではどこで、いつ、主イエスのまなざしと出会うことができるのでしょうか?この礼拝の中で、わたしたちは主イエスの喜びと出会うことがゆるされています、いま、この場所で、この席で、私たちは、主イエスと出会うんですね。主イエスは、一人一人の名前を呼びながら、「わたしのもとにくるように。」語りかけてくださっています。その呼び声は、電話のように聞こえてくるわけではないです。静かに、私たちの心にささやくようにして、語られます。いまささやくように、聞こえてくる声があるはずです。主イエスは、私たちを訪れていてくださいます。心のノックを叩いてくださっています。その声に耳をすませたいと思います。
 
皆様に、ぜひ心にとめていただきたいことは、ここには、もうすでに、その喜びを味わい続けていらっしゃる、方々がたくさんおられるということです。礼拝を通して、主イエスのまなざしを受けながら、本当に苦しい試練にありながら、生き生きと生きておられる方々がおられます。
 
そしてこれまでの日本の歴史の中で、この喜びを味わってきた多くの人びとがいるということです。NHKの朝ドラのモデルになっている、ニッカウィスキーの創立者の竹鶴政孝、通称マッサン、そしてその奥さんのリタ、ドラマではエリーと呼ばれていますが、彼らもそうでした。リタは、スコットランドに生まれ育ち、マッサンと結婚をして日本にきました。
日本に来てたくさんの苦労をしました、言葉がわからない、人種差別をうける、とくに戦中は、鬼畜と呼ばれ、非難され、苦しい日々を送りました。
でもそれでも、リタは日々喜びを見出していました、彼女もまた戦争の厳しさの中にあっても、主のまなざしの中で、生かされていたからです。生きる力を失うとき、なお希望を与えられ、愛する心を与えられ、喜びの中を歩むことができたんですね。そのような人びとの人生が、主イエスのまなざしがどれほど、私たちに喜びを与えるものであるかをちゃんと証してくれています。
 
今日、礼拝に集われた方の中には、「主イエスの喜び」と聞いても、すぐにピンとこない方もおられるかもしれません。わからなくても大丈夫です。簡単にはわからないものですから。でも神様は、必ずわかるときを与えてくださいます。
今日はじめて礼拝に来られた方、久しぶりに礼拝にこられた方は、今日わからなくって、あきらめないで、ぜひ礼拝に出席していただきたいと願っています。主イエスのまなざしに触れてくださって、皆様が、やがて生きていてよかった、そう心から思える、人生を送ることができますように、心よりお祈りしています。
Trackback
url: http://sendai-canaan.org/trackback/663