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 はじめての方のための聖書のお話, 2012.04.30 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
ヨハネの手紙毅款錬后腺隠粟瓠
「生きている、ただそれだけで」 國安 光 牧師
 


 本日は、ウェルカムサンデーにようこそおこしくださいました。ウェルカムサンデーといいますのは、「ウェルカム」(日本語で、歓迎する、喜び迎える)、の、サンデー(日曜日)。つまり、教会がはじめての方を歓迎する礼拝です。
 このようにいいますと、ある方はこうおっしゃられるかもしれません。「今日がウェルカムだとすると、はじめての方がこれるのは今日だけで、他の日曜日は来ることができないのか」と。決してそんなことはありません。毎週ここで行われているどの礼拝も、どなたでもウェルカムです。キリスト教に熱心な方だけではなく、キリスト教にあまりに馴染みのない方でも、他の宗教をもっておられる方でも、どなたでもウェルカムです。年齢に関しても、お年を召した方から赤ちゃんまで、どなたでもウェルカムです。礼拝をささげるのに、年齢制限もありませんし、何か特別な資格がないといけないということも決してありません。

 じゃあなぜ「ウェルカムサンデー」なのかといいますと、教会がはじめての方にとっては礼拝において、どうしても言葉がわかりにくいところ、雰囲気がなじみにくいところ、賛美歌が親しみずらいもの、いろいろあると思うのです。キリスト教主義の学校に通っておられる方や、卒業された方なら、なんとなくは入っていけると思います。けれどもそういう経験がない方の場合は、なじみにくい、親しみにくい、これが正直なところだと思うのです。私たちの社会において、そもそも宗教は受け入れられにくいものですし、日ごろあまり使わない「神様」という言葉が礼拝の中ではたくさん出てくるわけですから、はじめての方にはきっとついていけないな〜と感じられることが多いのではないかと思います。

 ですから、私たちの教会では、そのような方々のために、できる限り、わかりにくいところを、わかりやすく、なじみにいくいところを、なじみやすくして、教会がはじめての方々にも親しんでいただける礼拝をし、礼拝の中にある安らぎや喜びを少しでもお届けしたいと願って、ウェルカムサンデーを行っています。ウェルカムサンデーが、みなさまにとって、礼拝は難しい、堅苦しい、こういう思いを少しでも解消できる機会となり、また礼拝において与えられる安らぎを少しでも感じることのできる機会となっていただければ、幸いです。

  さて本題に入りたいと思います。はじめにひとつの新聞記事を紹介させていただきます。それは最近、朝日新聞に掲載されていた母と娘に関する記事で、タイトルは「なじる、切れる、すがる」というものです。



「『地震があったけど、ママたちは大丈夫です』『また会いに行くね』 母親から届くメール。関西地方に住む20代の女子学生にとって苦痛でしかない。文面から、すがるような、取り入るような、甘えた母の心を感じる。返事が遅れると、同じ文面が繰り返し届く。「何をいまさら」と思う。

  小学生のころ、母と心ゆくまでおしゃべりした記憶がない。途中でイライラして、「いい加減に勉強しなさい」とさえぎられた。仕事と祖母の介護に忙殺され、いつも不機嫌だった。高校時代、彼氏との交際がわかったときは、「裏切ったわね!」と猛烈に怒った。

「『女子高で勉強に力を注いでいる娘』という、自分が思い描いたわが子像にそぐわないと、ぶち切れる。わたしのことを心配する気持ちはなく、決して味方になってくれない」と思った。

 故郷を離れて大学に入った。母からの抑圧は収まったが、今度は、「さびしい」と言ってくるようになった。「いまさら『さびしい』と言われても、困ってしまう。わたしの声を聞かず、自分の希望を押し付けるだけ。本質的に昔とかわってないんです。」

 

「絶対者として君臨し続けた母に、ずっと否定されてきた。いまだに、生きることに恐怖心がぬぐえないんです。」(朝日新聞、2012/4/2)

 

 愛されたいのに、愛してもらえない娘の悲痛の声が書き記されていました。子どもの声を聞くことのできない、子どもが何を思い、何が必要かではなく、自分の感情や理想を優先させてしまう、子どもを自分の所有しているもののように支配してしまう、そういう自分中心の愛がもたらす、「無関心」という悲劇が描かれていました。

 この記事は、子どもの立場からかかれていますので、何か親が一方的に悪いような印象をもってしまうかもしれません。まるですべての責任は、親にあって、親が変わらなければいけない、こう言われているように思われてしまいますが、決してそういうことを言いたいのではないと私は思います。私は先日、キリスト教主義の保育園で職員礼拝の奉仕をさせていただきました。そのとき、ある先生がこのようにおっしゃいました。


「子どもに愛を注ぐことができないのは、親もまた、自分の親から愛を注いでもらってないからです。自分が親にされてきたことを、親は子どもに対してしてしまうのです。」

 

 わたしは、このようにうかがいまして、「愛の欠如は連鎖している」、ということをそこで気付かされたように思います。愛することのできない親もまた、愛を必要としている、子どもに関心を抱けない親は、自分もまた関心を抱いてもらう必要がある、のではないかと思うのです。子どもが苦しみを抱えているとすれば、親もまた苦しみを抱えているんですね。そうだとすれば、無関心という愛の欠如は、親だけの問題ではなく、親の親、元をたどっていけば、大変根深い問題であることがわかります。

 マザーテレサという有名な修道女がいます。彼女は、貧富の格差や差別が激しいインドにあって、貧しい人たちを助け、弱い人たちによりそう活動によって、ノーベル賞を受賞した女性です。そんな彼女が残したいくつかの言葉があります。そのひとつにこんな言葉がありました。

 

「愛の反対は、憎しみではない。無関心である」

「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、『自分は必要とされていない』と感じる事なのです。」

 


 戦争や貧困におきまして、多くの人が傷つき、苦しみ、血を流し、病を負い、死んでいきます。テレサは、そういう悲惨な戦争や貧困よりももっと不幸であるのは、「自分が必要とされていると感じることのできない、ありのままを受け入れてもらえない」無関心な状況だと言うのです。関心をもってもらえないがために、傷つき、苦しみ、病を負い、死んでしまう、そういう悲惨があるんだと言うんですね。
 マザーテレサの言葉は、いまを生きる私たちにとってとても重い響きをもっているかもしれません。世の中を見れば、自分の権利を主張し、自分に有用なものを効率的に手に入れる賢い消費者になることこそが幸せの条件だと思われます。そのために多くの人が目に見える幸せの形を追い求め、互いに競い合い、格差が広がり、ますます愛しあうことが難しくなっている時代ではないかと思います。人と関係を持ちたくても、いつも損得勘定がつきまとってくる。自分にとって損か得か、相手にとって損か得かを考えてしまう。
 そのような時代に生きる私たちの社会は、「無縁社会」といわれています。隣に住んでいる人の名前もわからない、関係をもたなくても生きているような環境で生活するのが当たり前の時代です。ここには孤独のままいのちを落とす高齢者、若者がいるという現実があります。目の前に助けを必要としている人がいるはずなのに、それすら気付くことができない。この現実の中で、さきほどの記事にありましたように、家庭の中においても無縁・無関心という悲劇は広がりつつあるのではないかと思います。愛することが困難な時代を迎えているいま、さまざまところに愛されている、「自分は生きている」こういう実感をもてない状況があふれているのではないかと思うのです。

聖書は、そのような私たちに「愛」について教えてくれます。キリスト教は、愛の宗教といわれます。聖書が証言しているキリスト教の神様の愛は、価値のないものを愛して、価値あるものとしてくださる愛です。「貧しく、弱く、小さい、世の中では価値がないと思われるような存在に対して、神様が『あなたは大切』と言ってくださる」こういうことができるでしょう。無関心な時代、かかわらない時代に、関心をもってくださる、かかわってくださる神様が、私たちにあふれる愛を注いでくださっている、そのことを聖書は証言しています。

さきほどお読みした聖書にはこう書かれていました。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(汽茱魯4:9,4:10)

 

 ここには、私たち人間が愛したからではなく、神様がまず私たちを愛してくださった、と語られていました。人を愛することのできない、自分すら愛することもままならない、私たちを神様が愛してくださっている、わたしたちには神様に愛される特別なものなど一切ないにもかかわらず、神様が価値ある存在として愛を注いでいてくださる、というのです。
 私たちが誰よりも人から尊敬されるところをもっているとか、誰よりもお金持ちだとか、誰よりも能力があるとか、誰よりも働いているからとか、それが理由で神様は愛されるのではないのです。神様は生まれる前から、私たちのことをご存知であり、愛してくださっているのです。


 そしてさらに神様の愛は、「この世に来られたイエス・キリストにおいてわたしたちのうちに示されている」、と聖書は証言していました。「示されている」という言葉は、聖書では特別な意味をもっています。原文のギリシア語の聖書を見てみますと、「示された」という言葉には、「覆いがとりのぞかれて、見えるようにされた」という意味をもつ言葉が使われています。窓にカーテンがかかっていれば外の景色は見えません。しかしカーテンを開けば、光がさしこみ、外の景色が見えるようになります、そのように目に見えなかったものが、目にみえるようにされた。
 つまり、ここでは神様の愛が目には見えなかった。神様の愛をうつす窓にカーテンがかかっていた。しかしそのカーテンが取り払われた、神様の愛が目に見えるようにはっきりとしめされたのだ、というのです。ヨハネによる福音書3章16節にはこのようにあります。「神は、その独り子イエス・キリストをお与えになったほどに、世を愛された。」神様は、この世を愛されている、その愛を、キリストを送ってくださることによってお示しになられた。キリストを通して、私たちは神様の愛を知ることができるようにされた、こう聖書は教えているのです。

 

 では、キリストに示された愛とはどのような愛なのでしょうか?それはキリストがどのような方であるかと深いかかわりがあります。キリストはクリスマスにお生まれになれ、十字架におかかりになられたお方です。イエス・キリストは、私たちと同じ人としてクリスマスにお生まれになり、人の苦しみや弱さを経験されたお方でした。そのキリストは人の弱さや苦しみに同情され、小さきものの目線にたって、社会の中で人に嫌われ、居場所を失っていた、貧しきもの、病を患うもの、罪人に近づき、倒れているものに手をさしのべられました。そしてキリストは、すべての人が、神様の愛の豊かさの中で生きることができるように、その生涯の終わりにおいて、十字架の上でご自分のいのちをささげられました。すべてをささげるほどに愛されたのです。キリストは自分を愛する人だけを愛したのではありませんでした。キリストをののしり、迫害し、裏切った人々、罪深い者たちをも愛されたのです。そのような人々のために、ご自分のいのちをささげてくださったのです。それが聖書が証言する、このキリストの中に示された、神様の愛です。
 神様の愛はいまここいる私たちにも、はっきりと示されています。教会の十字架は、私たちに神様の愛が注がれていることを、目にはっきりと見える形で証しています。十字架は、私たちのために、苦しまれた、痛みを背負われた、ご自分のいのちをささげられたキリストの愛のしるしです。
神様は、愛の乏しさを感じている、「自分は必要とされていない」と生きることに恐怖を感じながら生きている、苦しみや悲しみを背負って生きている、私たちが生きるこの世に、キリストをお遣わしなられました。このようにして、神様がご自分から近づき、かかわってくださり、愛をこの世に注いでくださっています。 ご自分の御子を投げ出すほどに、悲しみを背負い、苦しみを抱え、生きることがつらい、生きている価値を見出せない、孤独と不安の中にいる人を、神様の愛の豊かさの中で生かしてくださっているのです。

 神様は、いまここにいる私たちひとりひとりを十字架のキリストの下に招き、「あなたは大事な人だ」と宣言してくださっています。何もできなくても、そんな自分がいやになることがあっても、神様は「生きている、ただそれだけでいい、私はあなたを愛している」と私たちに心の奥深くに語りかけてくださっています。いま私たちはその声に耳をすませたいと思います。私たちの「生きている、ただそれだけ」を受け止め、天から注がれる豊かな愛に生かしてくださるキリストが、いま私たちの心の傍らにおられます。

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