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 はじめての方のための聖書のお話, 2007.11.27 Tuesday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
マタイによる福音書27章45〜56節
 「自分を傷つけなくてもいい生き方」吉岡契典牧師 
 
 傷は誰にでもあります。これは、体に切り傷がついている、どこかを怪我したとうことではなくて、心の怪我という意味での、心の傷です。私たちの知っているすべての人は、皆傷ついている人です。皆さんも傷を持っている人ですし、私も傷ついています。誰にでも傷はあります。そして私たちにとって、この傷という言葉ほど、身近な、自分に密着している言葉はないのではないかと思います。実際、私たちが日常的にしゃべったり考えたり行動したりしていることの中の多くの部分は、私たち自身が持っている傷と関係しているのだと思います。色々な傷が、今のわたしを造り上げている。私が抱えている色々な傷が、今のわたしの考え方や行動を導いて、方向付けているようにも思います。
 では、その傷とは、一体何なのでしょうか?
 それは、ひと言でいえば、挫折ということだと思います。挫折とは、「自分が一番求めているものを、得られなかった」という経験です。
 挫折した。ダメになった。願っていたようにならなかった。自分の思っても見なかったような仕打ちを受けた。全く考えていなかった形で失敗した。期待したものが得られなかった。そして何よりも、欲しかった愛が得られなかった。挫折は、心を傷付けます。そしてそこから、孤独であったり、不安や恐れであったり、怒りであったり、諦めや無力感であったり、自己嫌悪であったりと、色々な思いが出てきます。ですから、その心の傷を、私たちは直視できない。直視する勇気がないのです。だから傷を、私たちは心の奥深くに隠しておく。普段は心の奥底に沈めておきます。けれども、何かの拍子に、その傷が突然顔を出すことがあります。

 私は、自分が人からの期待を裏切ってしまうことに、強い恐怖心を抱きます。それは、人の期待を裏切ったことが、何度もあって、それが傷になっているからです。決して人から期待されるということが嫌いなわけではなく、それは私にとってとても嬉しいことであり、大事な励ましなのですけれども、人から強い期待をかけられると、人の期待を裏切ってしまうのではないかという思いが強くなって、人に会うのが怖くなり、自分をどんどん追い詰め、鞭打つような方向に向かって行って、けれどもその挙句にはプレッシャーに耐えかねて、混乱して、最悪の場合何もできなくなってしまう時があります。

 それから、これは誰もが傷として抱えている事柄だと思いますけれども、孤独という傷があります。孤独でいたくない。どんな時も誰かと一緒にいたい。自分のことを誰かに理解していてもらいたいという強い願望を覚えるときがあります。でもそれが叶えられなかったときに、そこで起こる挫折が、「私は孤独である」という傷を生みます。私は一人で何かを考えたり、何かに没頭するのが比較的好き方なのですけれども、けれども食事をするときや楽しみたいや、自分が少し弱っている時などに、ふと、孤独であることへの強い苦痛を感じることがあります。                           
 そして、人の期待にこたえなければならないというプレッシャーや、孤独の苦痛などの傷が顔を出しそうなときには、その傷を直視する代わりに、私たちは何とかそこから逃げようとするのではないかと思います。ほかのものに目をそらしたり、その傷を埋めてくれる存在を求めたり、混乱してわけがわからなくなってしまったり、その傷を今抱えている自分自身を攻めたてたり。その急場をしのぐために、私たちは半ば反射的に、色々なことをします。その急場のしのぎ方のひとつに、自分を傷付けるという方法があるのです。
 今朝の礼拝のチラシ案内に書きましたが、私たちは、「自分には価値がない」「自分は罰を受けなければならない人間だ」と、しばしば自分を自ら罰するような、自分の価値を自分から貶めるようなことを思い込みます。私たちがそのような思いに至る原因には、私たちの持っている傷が作用しているのではないかと思うのです。それは傷から目をそらすためであったり、その持っている傷ゆえに、自分を自ら罰する。そしてそれをすることで、私たちは何とか自分のバランスを保っているのではないか。どうにもならない自分の挫折を、自分を卑下し、自分を責めることで処理して、そこから、取り乱してしまうことの無いだけの、ある一定の落ち着きや、安心を得ようとしているのではないかと思います。

 ひと昔前のことですけれども、かつてのイギリスの皇太子妃で、最後は交通事故で亡くなってしまったダイアナ妃のことを、皆さんもよくご存知だと思います。彼女は、自分を傷つける自傷行為を、繰り返して行っていました。彼女は、皇太子妃に即位してまもなく、手足や体をナイフで傷つけたり、突然泣き叫んだり、また、恐ろしいことですけれども、妊娠中に階段の上から、身を投げたこともあるそうです。彼女はのちにそのことを振り返って、こう語っています。
「心が痛かった。そしてわたしは、心でなく体を傷つけたの。なぜかって?私は誰かに助けてほしかったの」
 ダイアナ妃の自傷行為は、当時、自分を傷つけて生きる生き方の、ある代表例のようにして、センセーショナルに取り上げられました。そしてそのダイアナ妃の自傷行為の原因は、彼女が抱えていた深い傷にありました。ダイアナ妃は、その華やかな外見と経歴とは裏腹に、幼い頃から苦しみを抱えて成長したようです。貴族の出身ですけれども、ダイアナ妃の出生は、男の子が生まれることを望んでいた両親を落胆させるものだったそうです。両親の仲は悪く、繰り返される言い争いの中で、ダイアナ妃は、自分が厄介者なのだと思い込むようになったそうです。そしてチャールズ皇太子と結婚した後も、チャールズには家の外に愛人がいましたし、皇太子妃としての生活もとても窮屈で、そのプレッシャーが彼女を追い込んでいました。ダイアナ妃はその苦しみと、逆に華やかなシンデレラのような外側の環境とのギャップを埋めるために、自分を傷つけたのです。
 
 精神科医によると、自傷行為の原因になるものとして、自分への自尊心が失われること、挫折と絶望、自分の本来の姿を見失って、どうしていいか分からなくなるという混乱、などが挙げられています。そしてそれが克服されて行くためには、わたしが、本来の「わたし」を取り戻す作業が大切であると言われています。つまりそれは、否定されるべき自分ではなくて、本来の、尊重され、大切にされるべき、自分の本来の姿を確認することです。
 ある説教者は「私たちの人生における最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自己を否定することだ」と言っています。世の中の論理は、競争原理です。そこでは、人と比べて勝っていること、競争に勝てることで、価値のあることが証明されます。人よりきれいで、人より仕事ができて、人よりやさしく、より高収入、より貢献できる人間であることが、その人の価値を定めていくような世の中です。もし評価を得たいのなら、自分に価値があることを示したいのなら、それを実行して見せて、注目を浴びて、人々を驚かせて、それを証明して行かなければなりません。しかしその原理でやって行くと、必ずできないこと、人より劣るところが見えてきて、それができない自分が惨めになって、自分を肯定できなくなってしまいます。

 聖書には、イエス・キリストという方のことが書かれています。そして主イエスが、この聖書を通して私たちに伝えようとしていることは、私たちは、愛されている者であるということです。両親や友人たちなどが、私たちを愛したり、反対に傷つけたりするはるか前から、私たちは神様によって深く愛されている。これが、聖書がその全体を通して、特にこの主イエス・キリストという方を通して伝えていることです。
 主イエス・キリストは、十字架にかかりました。そこに現されているのは、深い傷です。手足を木の十字架に釘付けにされて、頭には、鉄格子のような茨で出来た冠を無理やりかぶらされて、主イエスの体は血だらけ、傷だらけになりました。また体だけでなく心においても、十字架で主イエスは、体の傷以上に深い傷を負われました。今朝の46節に、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という、主イエスの叫びが記されています。これは、そのすぐあとに記されていますように、「わが神、わが神、なぜ私を見捨てになったのですか」という、苦しみの叫びです。神の子である、主イエスにとって、その神に自分が捨てられてしまうということは、これ以上ない苦痛でした。そこには、主イエスが人々からも見捨てられ、神様からも見捨てられるという、ぞっとするような孤独がありました。

「エリ、エリ、レマ?」と「神よ、神よ、なぜ?」と主イエスが問わざるを得ないのは、主イエスには、これほど恐ろしい罰を受けている、しかも神様から見捨てられもしている、しかしそれだけの心当たりがないからです。主イエスはここで、なぜだ?と、どうして私が?と、叫ばずにおれなかった。この方はそこまで追い込まれていた。そして主イエスの身に覚えの無かった、見捨てられる原因は、それは実は、私たちにあったのです。
この神の御子主イエスには、神様から捨てられなければならない理由が一切ありません。けれどもその主イエスが、十字架刑という呪われた、最悪の罪人が受ける処刑方で罰せられ、神様から捨てられて、叫び声を上げながら息を引き取る。これは、主イエスが、私たちの罪や失敗や、価値の無さをすべて担い切って、代わりに裁かれ、罰せられたことの証拠なのです。
「あなたは自分を傷つけなくてもいい。私が傷を引き受ける。私にとってあなたは、それをするだけの価値のあるあなただ。私はあなたに価値を見出している。私はあなたを愛している。あなたは今私に命がけで愛されている。傷口には私の愛を塗りなさい。あなたは愛される価値のある人間だ。」主イエスの十字架から、私たちはこのようなメッセージを受け取ることができます。

 私たちは、傷と向き合うのが怖くて、それができないから、心の奥底に傷をしまっておくのですけれども、でも本当は、その傷のことを話したい。心の外に吐き出したいと思っています。私たちはよく、自分の抱えている問題を相談したい。誰かに聞いてもらいたいと願うのですけれども、私たちは、その自分の苦しみ悩みを、分かってくれて、その自分の傷や失敗を本当に思いやってくれる人のところにだけ、実際相談に行くのだと思います。いくら頭脳明晰で、解決方法を次々に答えてくれるような人でも、私自身に同情して、私と深くかかわりを持とうとしてくれない人には、正直相談には行きずらいと思います。しかし主イエスは、十字架にかかることによって、まさに私たちの傷を共に深く味わってくださって、私たちの絶望の中に自ら入ってきて、そこに身を置いてくださっています。
 私たちには、自分の重荷を、主イエスに委ねることが許されています。その重荷とは、将来に対する心配や不安、私たちの犯した罪、私たちが受けた傷、今耐え忍んでいるもろもろの行き詰まりです。主イエスは、ただの相談者であるだけでなくて、その私たちがもちこたえることのできない重荷の一切を、実際に背負ってくださったのです。

 自分を傷つけなくてもいい生き方とは、主イエス・キリストの十字架の傷によって、この自分の傷を包んでもらう生き方です。傷は、あってはならないものとして、消し去ったり、隠したりするものではなくて、そこに一緒に寄り添ってくださる主イエスと、その傷を分かち合うことによって、癒されるものです。
カトリック教会の司祭であったヘンリ・ナウエンは、傷についてこう語っていました。「傷はみな、友達に怪我を負わされた子どもだと考えることだ。子どもがわめき散らして仕返しをしようとしている限り、傷はつぎつぎに増える。だが、親に優しく抱きしめてもらった子どもは、痛みにも耐えて、自分に怪我をさせた相手のところに帰って行って、傷付けた相手を赦し、新たな関係を築くものである」と。自分に優しくすること。今私たちの前には、主イエス・キリストという、優しく寄り添ってくれる方がおられます。私たちは、この方に、この自分の欠けているところや、深い傷も含めて、やさしく抱きしめていただくことができますので、実際に痛みのある現実を抱えながらでも、でもそれを、一人で背負う痛みとしてではなくて、主イエスが代わりに背負ってくれる痛みとして、傷を代わりに引き受けてくださるというこの方の愛に支えられて、歩んで行くことができます。
自分を責めて、自分を傷つけてプレッシャーを乗り越えたり、孤独を癒すのではない生き方。この自分の傷や、痛みや、この孤独を、一緒に味わってくださる。そういう風にして、私に寄り添って支えてくださる方。この方に、私は愛されている。この方に私たちは愛されているのです。
私たちの本当の姿とは、こうして教会に集められて、大切な一人ひとりとして、神様から歓迎されている、価値ある私の姿なのです。
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