RSS | ATOM | サイト内検索
 はじめての方のための聖書のお話, 2009.05.31 Sunday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
 マタイによる福音書9章18〜26節
「一番つらいところに愛を」 吉岡契典牧師

 私たちは日頃、そして今の時勢では特に強く、解決というものを求めている。あるいは問題を解決してくれる人を求めているのではないかと思います。社会のこと、政治経済のこと、生活のこと、将来のこと、生き甲斐や、希望についてなど、色々なレベルで、枚挙にいとまがないほどに、私たちの周りには、解決されなければならない問題が山積しているように思えます。このままでは良くない、このままでは地球は危ない、このままでは生活が危ういという声ばかりがあちこちから聞こえてくるのですが、しかしその問題解決は、どこにおいてもほとんど見えきていないように思われます。

 「Yes, We Can」というあの言葉は、「解決可能だ」という掛け声だったと思うのですが、アメリカの大統領が替わったり、ある政党の代表者が替わったりしましたけれども、私たちは新しい政治家が出てくる度に、この人は本当に我々の問題を解決しうるのかという目で、テレビ画面に映るその人を眺めます。しかし昨日は、韓国の盧武鉉前大統領が自殺をしたというニュースも流れました。本来解決を与えるべき立場にいた政治家の一人が、しかし問題を抱えて、行き詰まりを感じて、自殺というかたちの解決の道を選んだしまったということが、私にはとても悲しく感じられました。

 解決というものは、本当にあるのでしょうか?それがあるとすれば、解決は一体どこにあるのか?一体誰が私たちの問題を解決してくれるのでしょうか?

 

そこで、今朝私たちが耳を傾けたいのが、この聖書の言葉です。聖書は究極的な問題解決者としての神様を、私たちに対して提示します。神様という方は、一体何をしている方なのでしょうか?空の上の天国にいて、のんびり昼寝をしているのが神様なのでしょうか?それとも、地上に起こる全てのことを管理し、忙しく働き回っているのが神様なのでしょうか?神様が何をしているのか?何を望んでおられるのかということは、本来人間である私たちには分かりません。天上におられる神様のことは、私たちには知りえません。けれども神様は、神とは、こういう存在で、こういうことを考え、こういうことを目指し、望んでおられるということを、実はこの聖書を通して私たちに教えてくださっています。ですから、神様がどんな方で、何を望んで、何をしようとしておられるのかを知りたいならば、この聖書の言葉に聞けばいい。そして今朝この聖書は、その神様のことを、私たちの問題の解決者として描くのです。

私たちが行き詰まっているところ、一番助けを必要としているところ、しかし自分ではどうにもならない、問題解決が出来ないところに、しかし神様はそこにこそ目を注いでくださって、自分から足を運んでその場所に来てくださって、問題を解決してくださる。これこそが神様のしたいことで、実際神様はそれをしてくださるということが、お読みさせていただきました聖書の言葉に表れています。

神様のその思いは、具体的には、主イエス・キリストという方の生涯を通して明らかにされました。主イエス・キリストという方が、クリスマスにこの地上に生まれられましたけれども、それは、神様がこの地上に遊びに来たのではなくて、私たちの問題を解決してくださるために、神様がわざわざ地上に生まれてくださったという出来事でした。そして主イエス・キリストはその生涯を、自分のために生きたのではなく、始めから終わりまで、私たちを助けるために歩まれました。

 

 今朝お読みさせていただきました聖書の言葉では、主イエスは二人の女性に出会われています。そして聖書のこの箇所は非常に珍しい箇所だと思うのですが、二人の女性のエピソードが、ここではハンバーガーのように、ひとつのエピソードのちょうど真ん中に、もうひとつのエピソードが挟み込まれて語られています。なぜこういう語られ方をしているのだろうかと思うのですが、それはこの聖書が、私たちの力となるために、ただ単に美味しいお肉を差し出そうとしているのではなくて、言うなれば、肉をパンで挟んで、より美味しく食べやすいハンバーガーとして私たちに差し出しているからだと思います。聖書は、外側のパンと中身の具の味が合わさってできるハンバーガーならではのひとつの美味しい味をつくるように、二つのエピソードがひとつの話として調和させることで、そこに出てくる豊かなメッセージを読者に示して、読者に美味しく食べさせようとしているのだと思います。

 

 そこで、ではまず中身の具の方から見ていきたいと思うのですが、それは20〜22節に書かれています。

「すると、そこへ12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」

聖書は、どこにも彼女の名前を記していませんが、その名前を呼ぶよりも、あの出血が続いている女だと、長血の女だと呼んでしまえば、恐らくその町の人間は、ああ、あの女のことかと、それですぐ分かってしまうような、おそらくそういう意味で人々に良く知られていた女性が、彼女でした。

 聖書の他の部分の御言葉の、マルコによる福音書は、この女性についてこう記しています。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」本当に悲惨な状況です。彼女は病気のために医者を転々として、全財産を使い果たして、大変な苦境に立たされていました。

 そしてさらに彼女を苦しめていたものは、それだけではありませんでした。彼女には、肉体的な苦しみに追い打ちをかけるような、社会的・宗教的な苦しみがありました。なぜなら、旧約聖書のレビ記の15章には、出血がある間の女性はその間はけがれているとかかれているからです。旧約聖書によると、出血のある女性によっては、その女性が寝る寝床も、座る椅子も、けがれたものとなってしまって夕方まで使えなくなるとあります。そしてその出血期間中にその女性に触れる者も、女性同様にけがれた者となってしまうということが書かれています。これではあまりにひどいという印象を受けますが、聖書がこのように語るのはなぜかというと、血というものは、旧約聖書の時代から、聖書では命をあらすもの、その源、その象徴とされてきたからです。ですから命の源である血を流してしまうような状態は、すべて命の源である聖なる神様の前に、けがれであるとされてきたのです。そしてこの状態が、この女性には12年間も続いていたということです。つまりそのことはそのまま、彼女が12年間ずっと、けがれた人間として、人が触れることもできない、彼女の座ったその椅子に誰も座ることもできないという状態で、彼女が社会から締め出されて、そこに参加できない隔離された生活を12年間もずっと続けることを余儀なくされてきたということを意味しています。

 彼女は人々から同情を受けるどころか、かえってその病のために敬遠され、隔離され、彼女に向き合ってくれる人も、言葉をかけてくれる人もいない中で、彼女は社会的に、そして人格的にも、ほとんど死人同様に扱われていました。

しかし、そんな八方塞がりだった彼女は、主イエスに、最後の解決と救いを求めました。

当時の刻の人として、数々の人を癒し、奇跡を行なう力も持っているということで有名であった主イエスに、彼女は最後の望みを掛けます。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる。」根拠はありませんでしたが、これが彼女の最後の希望でした。彼女は、いつも主イエスを囲んでいる取り巻きの群衆にまぎれて、その側に寄っていって、後ろから、主イエスの着物の房に触れました。

 彼女はただ必死でした。しかし正面から主イエスの前に立つ勇気はありませんでした。ただ、通りすがりに、一瞬の隙をついて後ろからその服の房に手を伸ばしてタッチするという、そんなあり方でしか主イエスの前に立てなかった。自分はけがれている。まともな仕方では主イエスに触れることも、主イエスから触れていただくこともできない。けれども、治りたい。解決を得たい。だから、それでどうなるかわからないけど、とにかく主イエスという方の服の房にだけでも触れば、何とかなるかもしれない。何かが起きるかもしれない。そうやってこの主イエスに最後の望みを託してすがるよりほかになかった。これが彼女の姿でした。

 

 しかしその時、主イエスは、この小さな存在に対して、しっかりと「振り向いて」くださいました。多くの人々に反して、この主イエスだけは、彼女に同情的でした。そしてこの彼女の必死に解決を求める思いを汲んでくださって、それを信仰だ、神への信頼だと言って褒めてくださり、「元気になりなさい。」と、あたたかい言葉で励ましてくださいました。主イエスは、女性に触れられたときに、汚らわしいと言ってその手を払いのけられることはありませんでした。後ろから着物に触れた彼女に知らん顔をしてそのまま歩いて行かれたのでもありませんでした。主イエスは立ち止まって、彼女の存在を認めて、振り向いてくださり、主イエスの方から彼女にしっかりと向き合って、言葉をかけてくださいました。そしてその時、彼女の病気は治りました。

 誰からも敬遠されてしまっていたこの女性に、立ち止まって、振り向いてくださる主イエス、このお方の愛と力によって、彼女は解決を得た。彼女は生き返ったのです。

 

 そしてもう一人は、町の指導者の娘です。改めて18〜19節、23〜26節をお読みします。

「イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。『わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。』そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。『あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると少女は起きあがった。このうわさはその地方一帯に広まった。」

 他の福音書では、この娘は、ヤイロという町の指導者のひとり娘で12歳であったと書かれています。奇しくも、長血の女性が、医者からも世間からも見捨てられて生きてきた、その同じ12年間を、少女は町の指導者の娘として、恐らく何不自由なく、周りからも大切にされて生きてきたのです。全く正反対の二人の女性です。しかし12歳の少女は短くしてその生涯を閉じました。

 

この二人を見るときに分ることは、私たちは、人と比べた、自分の人生の幸不幸ということに、あまり囚われすぎてしまってはならないということだと思います。主イエス救いは誰に対しても分け隔てのなく与えられるものであり、誰の人生にとっても、それは必要なものなのです。

そしてここから分ることとして、私たちが抱えている問題とは、結局それを最後の最後まで突き詰めて行くと、死ということに行き着くのではないかと思います。最終的な手詰まり、最終的な手遅れ、最終的な滅び、諦め、これはイコール、私たちにとって死が訪れるということと同じことを意味しています。一番つらいこと、最悪のこととは、肉体的にも、同時に社会的にも死んでしまうことです。そしてそこが解決されないならば、それは全く付け焼き刃の解決にしか、結局のところならないのです。最後にある死という問題が克服されなければ、そこの解決が与えられなければ、それ以前にどんな解決があったとしても、でも結局最後は滅びて、手詰まりになって、終わってしまう。しかし逆に、そこが解決されれば、最終的な死が解決されるのであれば、たとえ目の前に問題が見えても、それに自分が殺されてしまうことはないわけですから、希望がある。望みを持てる。問題に負けなくなる。ですから死の問題が解決されるということが、実は私たちにとっては、突き詰めていけば、最も重要なのです。

 

そして主イエスは、出血の女性にも、この12歳で死んでしまった少女にも、御自分から近づいてきてくださいます。そして同じようにして向き合って、話しかけて、「少女は死んだのではなく眠っているのだ」と言ってくださる。死を否定してくださる。まだ終わっていないのだと、まだあきらめてはならないのだと、もう私たちの目から見れば完全に終わりだと、完全に手詰まりだと思えるところに、しかし主イエスは、私はそこから新しい救いの道を切り開くと言われて、実際その少女の手を取って、その少女を起き上がらせてくださるのです。

 

しかし実際に、私たちの問題の解決のされ方には、色々と幅があると思います。聖書が語っていますように、こういう風にして、神様と出会うことで病が癒されるという解決もあるかもしれませんし、聖書の中に出てくる使徒パウロなどがそうであったように、病が癒されずにそのまま残されるというかたちでの解決ということもあるのだと思います。結果としてどうなるか、どういう状態で私たちが解決を与えられるのか?それについてはそれぞれ異なると思うのですが、しかしこの主イエス・キリストという、私たちを救うためにこの世に来てくださった方との出会いから解決が導き出されるという点は、私たち皆にとって共通しています。

 

私たちは、自分の辛いところを自分一人で抱えたまま、自殺してしまう必要はありません。自分で解決しきれない問題を、私たちが自分で引き受けて、それを頑張って自分で飲み下していくことを、聖書は私たちに求めてはいません。この私たちには、問題解決者として、この神様がおられるのだということ、私などはかつてはとても正面から神様に向き合っていくことは出来ませんでした。その意味ではこの長血の女性のようであったのですけれども、たとえ後ろからその服に触れるだけでも、それでも良いとして、そんなわたしたちに向かってこの方は振り向いてくださいます。そしてさらにここでは、もう本当に死んでしまって、手でその服の房に触ることさえも出来ずに、もう葬儀の列が自宅にまで及んでしまっている。もう全く手遅れと思われるしかしそんな者に対しても、そこまで行っても、神様の方は、まだ私たちをあきらめてしまってはおられないのです。まだ終わっていないと、これはまだ眠りに過ぎないと言って、手を取って、私たちを起こしてくださる。そういう、誰もがあきらめるようなところからさえも、私を抱き起こして、呼び戻す力を持っておられる方、そこでこそ身を乗り出して、何よりこの私たちを助けようとしてくださる方、聖書を通して指し示されているこの神様です。解決は、究極的な解決は、この方のもとにあります。

 

Trackback
url: http://sendai-canaan.org/trackback/191