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 はじめての方のための聖書のお話, 2009.03.18 Wednesday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
ウェルカムサンデー 詩編139編1〜24節 
 「確かなあなたになるために」 吉岡契典牧師

 今朝は、赤石先生によるメッセージを期待して集ってくださった皆様には申し訳ないのですが、急遽赤石先生が仙台に来ることが出来なくなってしまいましたために、今朝は代わりに私がウェルカムサンデーのメッセージを語らせていただきます。赤石先生はまた次の機会にこの教会に来てくださると思いますので、その時を楽しみにしたいと思います。
 そこで今朝は、せっかく赤石先生が「確かなあなたになるために」というテーマを掲げてくださいましたので、そのお題をいただくようなかたちで、私なりの切り口でこのテーマについて語りながら、皆様とも御一緒に考えてみたいと思います。

 赤石先生が掲げてくださった、この「確かなあなたになるために」というこのテーマは、とても興味を惹き付けられるテーマだと思います。なぜならこのテーマ設定の背後には、あなたが、私たちが、確かな私になれていないという前提があって、その確かでない自分という点で、私たちはこのテーマに共感を覚えるからです。
 


 案内ハガキのお誘いの言葉にもありましたように、私たちは人生においての様々な問題に出会う事があります。その中で、人生に対する疑い、迷い、虚無感に直面することしばしばです。そして特にそういう時に、自分自身の確かさが揺らぐのだと思います。
何となく、自分は自分自身については大丈夫だと、自分にはそれほど問題がないと日頃感じていても、ある時人生の波が荒くなり、自分という船を転覆させるほどの強い風や横波をまともに受けてしまうと、その途端に、自分の確かさがどこにあるのか分からなくなることがあります。私は本当に大丈夫なのだろうか、この荒波を超えられるのだろうか、もう、すぐ次の瞬間には転覆してしまうのではないだろうか。こんな苦しい波の中で、なおこれを乗り越えて進んでいくだけの意義が、そもそも人生にはあるのだろうか、そうやって立ち直っていくための力が、果たしてこの自分の中にはあるのだろうかと、全く自分自身が頼りなく、疑わしくなることがあります。

 自分に自信を持てと、自分を好きにならなくちゃと、しばしば語られることがあります。
 けれども、人生の荒波に揉まれて、力と自信を失って、自分の力で真っ直ぐに立って、前を向いて歩くことさえ出来ないような時に、その自分に向かって自信を持てと言ってもそれは無理ですし、そんな自分を好きになれるかと言えば、やはりそれは難しい。なぜならそこに居るのは、一番自分が嫌いな自分、壁に当たっていたり、失敗していたりして、うまくいっていない自分、自分としては一番許せないような自分の姿がそこにあるからです。

 そういう時には、かつてのわたしは、過去の栄光にすがって、そこに自分の確かさを求めていました。うぬぼれと自己暗示というものは恐ろしいものだと思います。過去の栄光といっても、私の場合それは、今考えても全く心細いラインナップでしかないのですが、私の主観の中では、私が中学生の時が一番何もかもうまくいっているかのように思えた、人生の絶頂期でしたので、その時の表彰状だとか、まだ優等生だった中学時代の成績表とか、全校生徒の前に立って、リーダーシップを発揮していた自分の姿だとか、そういういくつかの過去の栄光に拠りすがって、その姿に連なるような自分を夢想して、何とか今の自分を捨ててしまわないように、今の自分を全く嫌いになってしまわないように、自分は出来るんだと、かつてはああいう風にできたじゃないかと、自分に希望を失わないために、もう錆び付いている、思い込みで作った自分の理想的な姿を寄せ集めてきて、何とかそれを自分の確かさの根拠にしようとしていた、そんなところがありました。
 けれども、そのやり方では結局、今の自分、その時の嫌いな自分の姿を見なくてよいように、そこに目隠しをして目を逸らしているだけですので、そういうやり方では、目の前の荒波から逃げて、それを先送りするばかりで、実際に目の前で起こっている問題に手を付けることがどうしても面倒くさく思えてしまって、なかなか前に踏み切っていけない状態が続くのです。

 過去の栄光にすがっても、荒波を超えていくほどの確かさがそこにはない場合があります。そしてそんな時、一体この自分は何者なのだろうと深く考え込んでします。何をしたくて、自分は何をこそするべきで、それこそ、何のために自分は生まれてきたのだろうと考え込んでしまうのですが、しかしそこで、この問に答えてくれるのが神様です。この自分は何者で、この自分に生きる意味があるのかないのかという、この大切なことについて、本当に答えてくれるのが、この聖書に書かれている、神様からの言葉なのです。

 ハガキに書かれていた赤石先生のお誘いの言葉には、「生活の荒波に揉まれて疲れ果ててしまうとき、それは神様が『わたしのもとに来なさい』と招いてくださっているときです。」と書かれていましたが、本当にそうだと思います。
 私はこの聖書の言葉から、「自分でもとても好きにはなれないこんな自分のことを、しかし神様はいつでも好きでいてくださる。」このことを知らされて、本当に救われたというか、実際にとても助かりました。

 自分に自信を持たなくちゃ、自分を好きにならなくちゃ、確かにその通りです。自分で自分を見放したら、自分で、この自分にはもう生きている意味や価値はないということにしてしまったら、もう終わりです。だから自分のどこかに、生きていられるだけの意味とか、価値とか、好きになれるような何かを、私たちは見つけなければなりません。
 それはいつでもどこにでもすぐに見つかるという場合もあれば、どこを探しても全く見つからないという場合もあります。私たちにはこの両方が起こりうるのだと思います。
けれども聖書は、私たち人間について、次のように語っています。
 「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」つまり人間は、自分で自分のことが分からない。自分で自分の状態を悟ることはできないということです。
 では誰がこの自分のことを知っているのかというと、聖書はまた、こうも語っています。先程朗読させていただきました詩編139編の1節から6節です。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬ先に、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。」
 「主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。」これぞ神の為せる業です。
 私たちは、自分で自分のことを知っているようで、実はあまりよく分かっていません。例えば、何気なく鏡を覗いてみたとしても、そこには確かに自分の姿は映りますが、そこに見えるのは、正面から見た自分だけです。残り半分の後ろ側は見えません。普段自分がどういう風に立っているか、座っているか、歩いているか、私たちはそれを正面から見る機会はありますが、座っている自分の後ろ姿や、歩いている自分の後ろ姿を見る機会は、日常的にはないと思います。しかし実際にその自分の後ろ姿は、自分以外の他の人には、すごくよく見えている、日常的な私の姿に違いないのですけれども、私は自分の後ろ姿についてほとんど何も知らないのです。実は、私たちにとって、一番見えにくくて、最もよく分かりにくいのは、この自分自身のことなのかもしれません。
 あるいは自分の「声」の場合もそうです。自分自身の耳に聞こえている自分の声と、人が聞いている自分の声は全く違います。自分の声を改めて客観的に自分で聞くのは、なぜかとても嫌なものです。そういう理由もあって、自分の説教テープを聞くのは、私にとって本当に耐え難いことで、恥ずかしいことなのですけれども、しかし私自身の自分の本当の声はどの声なのかというと、それは私自身に聞こえている私の声ではなくて、他人に聞こえている恥ずかしい私の声の方が、本当の私の声ということになるのだと思います。
また、自分で、これが自分だと思っている自分と、他人から見た自分の自分らしさというところにも、多くの場合ズレが生じます。普段一緒にいる家族との間でさえ、家族が考えている自分と、自分が考えている自分の姿が食い違うということがよくあります。つまり私たちには、自分自身について、本当はその一部分しか知りえていないか、あるいは、とても偏った、自分なりの仕方でしか、私は私を知ることができないという、どうしようもない現実があるのです。

 ですから自分の本当の姿、自分をトータルに、全体的に映し出すような、客観的な自分の姿というものは、自分を超えた視点からでしか分からない。この自分の、自分でも分かり切ることのできない、本当の姿を知っているのは、前からも後ろからもわたしを囲んで、私以上に私のことを究めてくださっている神様しかいないのです。

 そしてその神様には、私たちの座るのも立つのも、私の心も、私の人生の道筋についてのことも、全てのことが明らかです。つまり神様は、私のいいところももちろんのこと、ダメなところについても、輝かしい過去についても暗い過去のことも、未来のことも、全てを知っておられるのです。
 しかしこれは、これだけを取ったら、とても恐ろしいことなのではないでしょうか。なぜならこれが真実ならば、神様は私たちの隠したい部分についても、自分自身で認めたくないような自分の姿についても、そして、とても人には言えないような心に秘めた思い、自分の犯した罪についても、それを知っておられることになるからです。
 先程の詩編にもこのように語られています。7節から10節です。
「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海の中に行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
神様に隠せるものはない。どこに行ってもこの方からは逃げられない。けれどもそこで大事なのは、終わりの10節に言われている、「御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」時の、そのとらえ方です。

 もしこの神様が、感情のない裁判官のような神様だったら、私を逃がさずとらえるその神様の手が、わたしを捕まえるための手で、わたしに手錠をかけて、裁いて、罰するための手だったら、こんなに恐ろしいことは他にありません。どこに行っても逃げられないのですから、こういう神様に自分の全て知られているのだとしたら、それは最悪です。

 けれども、神様のその手は、私を捕まえてどうにかしようとする、そういう恐ろしい御手ではないのです。それは私を引き裂こうとする手ではなくて、私を丹念に、手塩にかけて造り上げた母親の手、いやそれ以上に深くて優しい、私に寄り添う手、私を支える手なのです。その優しい神様の手から、私たちは逃げられないのです。今朝の御言葉の13節から18節です。
「あなたは、わたしの内蔵を作り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝を捧げる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなにおどろくべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も作られないうちから。あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを究めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。」

 先程私は説教の中で、「私たちが自分で自分を見放したら、終わりなので、私たちは自分のどこかに、生きていられるだけの意味とか、価値とか、好きになれるような何かを見つけなければならない」と語りましたが、ここには、この私たち自身の、限られた自分を見る目を超えたところから、私たちの目よりもはるかに正確に、この自分を見下ろしている目があって、しかもその目は、私自身では気付かないような、私の中にある価値、私の生まれてきた意味、私のこれからの人生の目的を、しっかりと見定めている。その目的のために、神様は私を母の胎内に組み立てくださったのです。聖書の中で神様は、私たちのことを、「わたしにとっての宝」とも呼んでくださっています。私は神の宝物である。神様によって、母親の胎内に丹誠込めて作られて、その人生のすべての日を数え上げられているのが、この私たちならば、それは当然のことだと思います。宝物であるということは、その存在自体が価値を持っているということですし、ほかのものとは取り換えが効かない、唯一無二のものであるということです。私たちは宝物として、宝に相応しい作られ方をされ、宝に相応しい哀願を受けており、神の宝として相応しい人生を用意されているのです。私が、そうやって神様の宝として作られ、生まれて、今ここにこうしてあるということは、それ自体が奇跡ですし、嬉しいことですし、無限の価値を持っていることなのです。 
 
 キリスト教は、すべて命あるものは大切だと、野の草も、空の鳥も、この私たちも、みな命を持っているのだから、大切にして、皆で平等に愛し合いましょうと、いたずらな博愛主義を説きません。聖書が語っている一番のメッセージは、すべての命は大切だということではなくて、「あなたが大切だ」というメッセージです。
あなたにはそれが見えないかもしれない、今日聖書を読むまであなたはそのことを知らなかったかもしれないけれども、今のあなたには価値がある。神様はあなたを愛している。そして今神様の愛を受けているあなたは、つまらない存在であるはずがない。あなたは神様の宝物なのだから。「どんなに大きな荒波が襲ってきても、それに巻き込まれて、あなたの目の前に死が顔を出すような時にも、わたしはその宝であるあなたを、自分の命に替えても救い出す。」これが、この分厚い聖書が全体を通して語っているメッセージであり、今から2000年ほど前にイエス・キリストが十字架に架かって死なれたのは、実は、そのあなたが死から救われるための、イエス・キリストによる身代わりの死だった。実は、それは、あなたのすべての罪が神様に赦されるために、イエス・キリストが受けた身代わりの刑罰だったのです。

 今朝はどうか皆様に、今までは自分でも分からなかった、新しい自分の姿を知って、安心して帰って行っていただきたいと願っています。自分が自分のことを好きになれない時があっても、自分のことを愛せない、認められない、許せないと、もうこの先の自分を信じられなくなったとしても、神様はあなたを愛しておられるということ。神様は、悪い部分も含めて、あなたのすべてを愛して、信頼して、認めてくださっている。この方は本当に全力を払って、私たちを宝として扱ってくださいます。そしてここに確かさがあります。私たちの確かさとは、この神様に寄り添われて生きる。ここにこそあるのです。
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