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 はじめての方のための聖書のお話, 2008.12.29 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
リース
 「クリスマスの第一発見者」 吉岡契典牧師
 私がクリスマスを考える時に大切だと思っていますことは、このクリスマスという出来事は、単なる昔話や、おとぎ話なのでもなくて、今の自分に関係のあることなのだと知ることだ、と思っています。私たちはよくメリークリスマス!と言いますけれども、メリーとは、嬉しい、楽しいという意味です。でもこのクリスマスが、自分に関係のないことだったとしたら、クリスマスは別にメリーでも何でもないのだと思います。
 今晩はこのクリマスが、誰のための者なのか?今日の、この朝のクリスマスが、誰に向けられた、誰向けのものなのか?ということを聖書から改めて知らされたいと思うのですけれども、そこでここでは、クリスマスの第一発見者に注目してみたいと思います。
 
 その事柄がまず最初に誰によって発見されたのか?あるいはまず最初に誰に向かって伝えられたのか?これはとても大切なことです。私たちに置き変えてみても、何か大きなことがあったとき、嬉しいことがあったとき、あるいは悲しいことがあった場合でも、それを一番最初に伝えたい人、一番最初に見てもらいたい人、一番最初に駆けつけてきて欲しい人がいると思います。一番大事な人に、一緒に喜んでほしい人に、最初に伝えたい、自分に起こったことの第一発見者になって欲しい。これは自然の感情です。ましてやこのクリスマスに起こっていることは、新しい命の誕生です。私が親になった時もそうでしたけれども、その新しい命の誕生を、これはやっぱり一番大切な人に、一番それを喜んでほしい人に、最初に伝えたいと思います。
 そしてクリスマスの時も、その第一発見者は誰でもいいという訳ではありませんでした。この人たちに、主イエスの誕生を最初に伝えたい。生まれたばかりの主イエスの姿をこの人たちに最初に見せたいと、神様がそう思う相手が、この時ちゃんといました。

 実は聖書には、クリスマスの第一発見者が、二通りの仕方で書かれています。聖書には、福音書という書物が4つありますが、そのうち、このクリスマスのことが書いてあるのは、マタイ福音書と、ルカ福音書の二つです。そしてそれぞれ、第一発見者が違います。第一発見者というのは、普通一人のはずですけれども、聖書がそれを承知のうえで、あえて二種類の第一発見者を記していますので、私たちはどちらが本当でどちらかは嘘だということではなしに、どちらも第一発見者として扱う必要があるのではないか?そこに真理があるのではないかと思うのです。

 では、この二種類の第一発見者とはどんな人たちであったかといいますと、先程読んでいただきましたマタイによる福音書は、東の方から来た学者たちが誕生の第一発見者であったと記します。この学者たちは、現在のイラクのバグダットのあたりから来たのではだと言われていますが、それは当時の世の果てです。
 彼ら学者たちの一番の特徴は、彼らが外国人であったということです。マリアやヨセフもビックリしたと思います。「誰なんですかこの人たちは?」という感じです。目の前にいる学者たちは、もう完全に外国人なわけです。言葉もちゃんと通じたかどうか分かりません。マリアとヨセフにとって彼らのような外国人を見るのは、多分生まれて初めてです。それがいきなり出産の現場に来る。そしてその学者たちは、これも恐らく見たこともないような、黄金、乳香、もつ薬を差し出して、生まれたばかりの赤ん坊に向かってひれ伏すわけです。当時のユダヤ人たちは、神様は外国人を救わない。外国人や異教徒たちは救いから漏れていると考えていました。しかし目の前で、まさにそういう人たちが神様を礼拝しているのです。誰も想像だにしなかった第一発見者です。そしてここに、主イエスの誕生の意味、主イエスの誕生が目指している目標が示されています。主イエスの誕生は、はるか地の果てを指差していた。そしてそこに届いていたのです。


 続いて、ルカによる福音書にも第一発見者がいます。それは羊飼いたちでした。彼らは先ほどの学者たちとは正反対の種類の人々です。地の果てから来た身分の高い学者たちに対して、羊飼いたちは、場所的には主イエスと近いところにいた、身分の低い、人々からうとんじられていた人々で、物理的には近くても、精神的には神様から最も遠いところにいた人々だと言えます。
 草を求めて四六時中、野原を絶えずさまようのが、彼らの生活でしたので、彼らは礼拝にも行けませんでした。会堂へ神様を礼拝しに行くというのは、ユダヤ人の社会生活の常識であり中心でしたから、そこに参加できない彼らは、社会からはじき出されていました。そして当然、彼らは神様とも無縁でした。貧しさゆえに供え物も捧げられない彼らは、かえって神を侮辱する罪人だとして、人々から軽蔑されていました。人々からも神様からも捨てられていたのが、彼らでした。
 けれどもその彼らに、ルカ福音書では、一番最初に主イエス誕生のニュースが知らされました。天使は羊飼いたちに現れて言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」これを聞いた羊飼いたちは急いで馬小屋の、その飼い葉桶に寝かされている赤ん坊のもとに駆けつけました。ほこりにまみれた、つぎはぎだらけの布切れを体に撒きつけている羊飼いたちが、どやどやとやってくる。そして主イエスを見て、天使の言った通りだったと言い合っている。マリアとヨセフの夫婦は、思わずキョトンとしていたと思います。けれども、羊飼いたちのテンションは高かった。彼らは喜んで帰って行く。神様と無縁の存在。彼ら自身も、自分たちは神様には捨てられたと、神様は俺たちには関係ないと思っていたに違いない、その彼らを、神様は見捨てていなかった。ちゃんと見ていてくださった。見離しておられなかった。あなたがたのための救いがここにあると、あなたを救うための救い主がここに生まれたのだということを、神様は彼らに確かに見せてくださった。

 この二種類の人たちを第一発見者とすべく、そこを目指して、実はクリスマスは起こりました。クリスマスのねらいは、年末商戦とか、購買意欲とか、恋人たちの愛情確認とか、そこにあるのではないのです。クリスマスが目指しているターゲットは、この第一発見者たちです。
 そして私は、これらの人々がクリスマスの第一発見者だったということが、とても嬉しいのです。なぜなら、あの学者たちの姿や、羊飼いたちの姿を見つめる時に、その背後に、この自分の姿が透けて見えてくるからです。その時に、この私にも、望みがでてくるからです。私は、極東に生まれた日本人で、主イエスから見れば全くの異教徒であり外国人です。さらに、神様のことなど何にも知らなかったくせに、神様はたいしたことないだとか、神様は自分には関係ないと、そういう風にかつて思っていたからです。
でもこの第一発見者たちを見る時に、あーっ、この私でも、クリスマスの第一発見者になれる。物理的にも精神的も神様から一番遠いところにいる自分のような者でも、そこに間違いなく招かれているということが分かる。神様は、この自分をクリスマスのターゲットにしてくれているだと、わかります。だから嬉しいのです。
 羊飼いたちのように、この私たちも、神様の言葉を聞いて、クリスマスは自分のためにあったんだと言って、喜ぶことができるのです。だからこそ、だからこそクリスマスは、私たちみんなにとって関係のある日、メリークリスマス!とみんなで言い合ってよいの日なのです。クリスマスの日に、神の御子、イエス・キリストというプレゼントが、今のあなたに一番最初に空けて欲しいプレゼントとして、神様から届けられているのです。どうぞ、あなたのためのこの救いを受け取ってください。
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