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 はじめての方のための聖書のお話, 2008.12.29 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
マタイによる福音書1章18〜25節 
 「引き受けてくださる父」 吉岡契典牧師

 先週ある雑誌に、「再度、『自己責任』という言葉を問う」という記事が出ていました。そこにはこうありました。「一体、私たちはどこに向かおうとしているのだろう。すべてが『自己責任』なのか。来年までという契約をこの年の暮れに破棄され、職と住居と、明日からの暮らしを土台から奪われるのは、働く者の『自己責任』なのか。老いて、介護が必要となったことも全て『自己責任』なのか。『たらたら飲んで食べた』覚えはないが、ある年代になって病を得ることも、すべて『自己責任』だというのか。」
 本当に、最近どんどんと、世知辛い世の中になってきていると思います。自己責任という言葉が、人を切り捨てる口実として使われ、責任放棄や責任転嫁を助ける言葉として用いられています。そんな中で、私たち自身の心も、そういった方向にどんどん引きずられていっているのではないかと感じています。何らかの失敗を犯してしまったと見える人に、冷たく当たってしまうことがあります。私たちは、その人が困っているのかいないのかというような、その人の体温を気にするような視点で人を見るのが難しくなっていると感じます。善悪を判断する目で、失敗したのか成功したのか、そういうテストを人に課すような冷たい目で人を見てしまうことがあります。そういう見方で人を一方的に評価して、何かこちらからの理由を付けて、あなたは間違っている、そしてそれはあなたの自己責任だと裁き下すことは、簡単です。しかしそれは、裁かれてしまった側の自己責任と言うには、ちょっと違う。それは自己責任には当てはまらないと思います。
 しかしそういう風な、抜き身で斬りつけ合うような、人間同士の傷つけ合いや、分裂が広がっているような今の世の中ですが、クリスマスには、そのような冷たい意味ではない、愛に基づく責任感が、美しく働いているのを、私たちは見ることができます。




 美しい責任感。そのキーワードでクリスマスの出来事を見る時に、そこで浮かび上がってくる人物は、主イエスの父親ヨセフです。何かと、クリスマスというと、何より主イエスと、その母マリアが注目されてしまいがたちですけれども、今朝はヨセフに特に注目してみたいのです。
 けれどもヨセフは、聖書の中にはほとんど姿を見せない人物です。そしてそのヨセフについて記されている貴重な御言葉が、今朝お読みしましたマタイ1章18〜25節です。そしてここでは、ヨセフに対して衝撃的な事実が発覚します。恐らく彼は悩み苦悩します。しかしヨセフは前に目を向けてそれを乗り越えて、主イエス・キリストの誕生に欠かすことのできない、主イエスの父親としての重要な役割を果たしました。
聖書を読みながら、そこで何が起こったのかを見てみたいと思いますが、18節にはこう書かれています。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」
 クリスマスの出来事は、マリアと婚約中のヨセフを襲った、衝撃的な気付きに始まります。ある時ヨセフは気付いてしまったのです。婚約中の身である相手のマリアが、なんと子どもを身ごもっているということを。
 当時のユダヤの結婚制度は、日本とは違って、婚約、確約、結婚という三つのステップを踏むのだそうです。そして婚約と結婚の間にある確約とは、今の日本で言えば結婚に等しい重さを持っていました。確約中に結婚の約束が破棄されますと、そのカップルは離婚したという扱いになるそうですし、夫が確約中にもし死ぬようなことがありましたら、妻はまだ結婚前ですけれども、処女の未亡人として扱われたのだそうです。そして一年間の確約期間を終えて、二人は初めて結婚に進めるようになり、そこで初めて同棲が許されるのだそうです。ですので、明確に結婚を前提とした婚約関係にあった二人は、法律的には夫婦と同等でした。しかしその婚約期間中に、処女でいるべきマリアが、しかし子どもを身ごもっているということにヨセフは気づきました。それは当時では姦淫の罪に当たり、それは息絶えるまで石を投げ続けられるという石打ちの極刑に処せられるべき罪でした。
そこでヨセフの取った行動は、19節に書かれています。19節。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」マリアの不倫を知ってしまったという怒りが当然ヨセフにはあったと思います。ヨセフには復讐する権利があり、その不貞をはたらいた妻を、法廷に突き出す権利がありました。けれども、マリアをそういう目に遭わせたくはないという思いも彼の中には当然ありましたので、彼はマリアの罪をさらしてしまうことなく、この問題を処理できないかと考えて、そのためには結婚をあきらめて離縁するほかないという結論に達しました。幸いなことに、婚約期間中の離縁は、離縁状を渡して、それを二人の証人が認めてくれさえすれば、法廷に届けを出す必要もなかったようですので、そういうやり方なら、マリアをさらし者にすることなく、スキャンダルを表に出さずに切り抜けられます。「ひそかに縁を切ろうと決心した」とは、ヨセフのそういう決心を現しています。そしてそれは法的にも、マリアに対する配慮としても、ヨセフが目にしてしまった大きな問題を解決するための、その時点での最善の決断であったに違いないと思います。
 ヨセフは何日も眠れぬ夜を過ごしたに違いありません。しかもヨセフは、離縁の決断をした後にも、20節の始めに「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。」とありますように、決断した後にも、その離縁を執行せずに、考え悩んで、夢を見ているのです。
 恐らく彼は、そこで考えたのだと思います。自分の決心は確かに正しいし、的確であり、この状況ではベストなのです。けれども、それをすれば事は済むのか?離縁後のマリアの生活は誰が支えるのか?生まれてくる子どもはどうなるのか?父なしの子として歩むのか?自分の決心は正しいかもしれないけれども、それですっきり問題は片付いたことになるのか?「縁を切ろうと決心した」と書いてある後の「このように考えていると」とは、そういうヨセフの状態を示す言葉なのではないかと思います。
 しかしそこで夢の中で天使が現れてこう言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
 そしてこれを聞いてヨセフはどうしたかというと、24節です。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
 私たちがここを読みながら注目すべき事は、ヨセフは、ここで何が起こっているのかという、その全てを理解し切れていないということです。彼は困惑しています。当のマリアから事情を聞いたわけでもありません。恐らくお互いに、その話題に触れることすらできない。ルカ福音書を見ると分かりますけれども、この時マリアもマリアで、この妊娠の事実をどう受け止めるべきか思い悩んでいました。ですので、とてもその話題に触れることができなかった。懐妊を話題にして、マリアが聖霊によって身ごもったとヨセフに説明したところで、そんな話しは到底信じてもらえるはずがないとマリア自身が思っていたのではないかと思います。そんな硬直状態の中で、内心において離縁を決意したヨセフに、天使が夢の中で、恐れず妻マリアを迎え入れよと語るのです。
 夢は所詮夢に過ぎませんから、別に何の保証にもなりはしません。夢は曖昧なものですから、ともすれば自分はその夢を見たという記憶すらも、すぐに曖昧になる。ヨセフは、「変な夢を見てしまった。最近ちょっと疲れているからかもしれない」と言って、夢を夢で片付ける。所詮夢の中のことだと言って、この天使からの意味の測りかねる言葉を握りつぶす、ということもできたと思います。
 けれどもヨセフは、「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」彼はマリアの妊娠にショックを受けて、落胆し、苦渋の選択として悩みながらも離縁を決意し、けれどもその自分の決断よりも、吹けば飛ぶような夢で天使が語った言葉の方に信頼を置いて、最後には妊娠中のマリアとその不思議な子どもを引き受けます。彼はその子供の事実上の父親となりました。
 理由はどうであれ、状況はどうであれ、責任を取る。自分の持っている最善のものを、妻と子どもに惜しみなく与える。自分のためにではなく、自分の筋を通すのでもなく、どこまでも家族のために存在すること。ヨセフはその覚悟を決めて、家族を養う責任を、家族の存在そのものを、下から担って支えるという責任を引き受けました。しかもヨセフは、この一連の事柄の中で、この聖書全体を通しても、たったの一言も言葉を発していません。全て自分の胸で受け止めて、そこで噛み砕いて、それを飲み込んでいる。父性とは、父親性とは、こういう引き受け方にあるだと思います。本当に自分の人生や信念をそのために曲げてでも、家族を守る責任を背負い上げるということにあるのだと思います。
そしてこの家族はそのあとすぐに、この父親ヨセフの保護を必要とします。ヘロデ王が主イエスの暗殺という陰謀を企み、子どもは命の危険にさらされます。幼子主イエスにはこの時、頼りになる、家族の盾になってくれる誠実な父親が必要でした。そしてその父親はヨセフ以外にはいませんでした。

 ヨセフは、なぜこのような父としての勇気ある行動を取ることができたのでしょうか?それは、彼にもまた天におられる父なる神という父がいたからです。ヨセフは、神様を信じていました。自分の人生をが、たとえそれが自分の計画していた通りにならなくとも、自分の思いや自分の決心どおりにならない人生であっても、信仰を持ってその人生を進むならば、天の父がその自分の歩みを引き受けてくださる。自分が望んでいる以上の素晴らし良いものを、私を愛してくださっている父なる神は、必ず私のために用意してくださっている。そういう信頼がヨセフにはありましたし、ヨセフにもそういう信頼できる父がいた、自分の全て投げ出さないで受け止めて、引き受けてくださる父が、ヨセフにもいたのです。
 ですから、ヨセフがここで示している父性、父親性は、同時にヨセフがそれによって養われているところの、父なる神の父性、父親姓を映し出しているのです。今朝の御言葉の中で言われていること、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」というこの言葉には、父なる神が、私たち皆を自分の手の中に引き受けて、救い上げてくださるために、イエスという男の子を送ってくださったのだという、クリスマスに実現した出来事が語られています。

 私たちには、まさにヨセフが示したような、父がいるのです。親にとって、一番大切なのは、子どもです。それ以上に大切なものはないと言っていい。クリスマスに、父なる神は、神の御子、イエス・キリストをこの地上に送られました。なぜかというと、私たちが大切だからです。御子イエス・キリストを手元に置いておけないほど、私たちのもとに遣わして、彼を通して、イエスの命と引き替えにしてでも私たちを罪から救わずにはいられないほど、御子イエス・キリストのその尊い命よりも、私たちの命の方が、父なる神にとっては明らかに重い。その命を救い守ることこそが、父なる神の、私たちの父としての、何よりの責任なのです。クリスマスに御子イエス・キリストが地上に生まれ、私たちの罪の赦しのために十字架についたということは、神様が、私たちの父であり、私たちは神様にこの上なく愛されている子どもであるということの、何よりの証拠なのです。神様は私たちに対して責任を持っておられます。その責任を負ってくださり、私たちをしっかりと引き受け、守ってくださいます。私たちの状態がどうであろうと、その責任は放棄されません。その責任を果たすために、神様は御子の命も惜しまず使い果たすのです。私たちはそういう責任の取られ方をしているのです。
 政治の問題にしても、リストラの問題にしても、責任を背負うべき立場からの、突然の責任放棄という問題が立て続けに起こっているように思いますが、責任というものは、それは自分勝手に自由に、放棄することができないものだからこそ、それが責任なのだと思います。父なる神が惜しみなく、責任をもって、私を愛し、守ってくださる。私たちはそれだけ、神様にとって価値ある子どもなのです。この愛の証拠として父なるからクリスマスに送られた主イエス・キリストを、私たちは是非とも喜んで、素直に受け取って、それぞれの心にお迎えしたい。父なる神の責任ある愛に身を委ねたいと思います。

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