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 はじめての方のための聖書のお話, 2008.09.29 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
ヨハネによる福音書4章1〜26節 
 「渇きが満たさるために」吉岡契典牧師

今朝はようこそ、仙台カナン教会の礼拝においでくださいました。心から歓迎いたします。
 今朝の礼拝メッセージのテーマは、「渇きの満たし」です。9月も、早くももう終わりで、最近ではもう寒いぐらいですから、私たちが今朝のテーマの渇きについて、今のこの気候からそれを実感しているということはないかもしれませんが、けれども今朝ここで皆様と御一緒に考えたいことは、私たちのこの心の渇きについてです。普段はあまり、自分の心が渇いているのかどうかなどということは、特別考えないことかもしれませんが、今朝は改めて、自分の心に手を当ててみて、果たして自分のこの心は、渇いているのか、潤っているのか、自分にはどんな渇きがあって、そしてそこにはどんな潤いが必要なのか、改めて、立ち止まって考えてみたいと思うのです。

 心の渇きをどんな場面で、どんな時に感じるのか、ということについては、それは人によって様々だと思うのですけれども、今の私自身の状況で考えてみますと、私はその心の渇きということを、最近は子育てをする中で感じることが多くあります。
 私は、先日二人目の子どもが与えられて、上の子はもうすぐ二歳を迎えますので、その意味では、今子育ての真っ只中にいるのですけれども、特にまだ乳児であったり、まだ幼児の時期の子どもは、私がいくら眠たかろうが、いくら仕事で疲れていようが、いくら忙しく、時間的にせっぱ詰まっていようがいまいが、そんなことはお構いなしに、常に「あっこ、あっこ」と、「抱っこして、抱っこして」と言いながら、両手を広げて、自分を見て欲しい。自分にかまって欲しいと呼びかけてきます。しかもその時に、子どもは常に100%の愛情を求めてきます。そしてそこで私がいい加減に対応したりすると、猛烈に怒って金切り声を上げたり、泣いたりします。その場面で、ああやれやれ、と言いながらも、その要求に自分を合わせることが出来る時はいいのですが、自分が深刻に疲れていたり、他のことで頭がいっぱいになっている時には、もう今のこの自分の中には子どもに与えられるものはこれ以上見つからないという、そういう状態になってしまいます。これ以上かまっていられない、限界だと感じて、そういう時には、もうイライライライラして、怒りさえ湧いてきます。そんな時私は「今忙しいんだ。だだをこねるんじゃない。ちょっと黙っていろ」と、心で叫んでしまいます。そういう意味の言葉が、思わず口から出ることもあります。子どもを叩いてでも今黙らせたい、そういう衝動を味わうこともあります。そしてそういう感覚を味わうと、何だか自分が恐ろしくなります。そういう衝動を覚えますと、親としての自分に、自己嫌悪を覚えてしまいます。
 最近では、私にとっての渇きは、そういう場面で顔を覗かせるのです。表向き、自分は渇いてないように見えても、自分で自分をそういう人間ではないと思っていても、実はその自分が、実際にはとても危うい内面を持っていて、実は内側には渇いた部分を、心のすさんだ部分をしっかり抱えている人間なのだということを、そういう時に改めて知らされます。
 そしてそういう、心の奥にある枯渇は、子どもを相手にする時にも、あるいは自分自身の課題や仕事に向き合わなければ行けない時にも、そして他人や、夫婦や、その他の家族に向き合う時にも、何かの拍子で突然表に出てくることがあります。

 果たして、私たちの心の、一番奥底にあるのは、そこから水が絶えずこんこんと湧き出ているような泉でしょうか?それとも、硬い岩でしょうか?そこにあるのは枯れた砂地でしょうか?
 ちょっと休暇を取って温泉旅行に行けば、心は満たされるのでしょうか?好きな所に好きなだけ遊びに出かけて、四六時中好きなことをし続ければ、心の奥の渇いた部分に水が溢れるのでしょうか?
 私も温泉が好きですし、旅行も大好きなのですし、体を休めて、体を潤わせることは確かに必要なことですけれども、しかしそれで心の渇きが潤うかというと、難しい場合があるなと感じます。レジャーは大事ですけれども、やはりそれは一時の息抜きですから、それによって渇きから目を逸らすことは出来ても、現実逃避のようなかたちでレジャーを楽しむだけなら、それも渇きの解決にはなりません。
 ではどうすればいいのでしょうか?途方に暮れるしかないのでしょうか?あるいは、そもそも心の渇きという問題自体、それが現実にあるとしても、それを深く考え出したら身もフタもなくなるので、そんなことは考えない方がいいのでしょうか?

 けれども、そんな私たちに、今朝、主イエス・キリストは、このような言葉を語ってくださっています。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
とても不思議な言葉だと思います。ではこれは、聖書の中の、どんな状況で語られた、何を意味する言葉だったのでしょうか?

 これは、正午の井戸端で、主イエス・キリストとバッタリと出会った、一人の女性に向かって語られた言葉でした。彼女の名前は聖書に紹介されておらず、ただサマリアという地方にいた一人の女性ということで、「サマリアの女」とだけ紹介されている女性です。
サマリアとは地名を指す言葉で、そこはエルサレムにほど近い場所にあったのですけれども、そこは、当時のユダヤ人たちにとっては、大変疎ましい地域とされていました。今でもそうですが、ユダヤ人は、民族的純潔というものを、非常に大切にします。けれどもこのサマリアは、敵国に占領させてしまい、その占領下での政策によって、雑婚の慣習が生まれて、外国人たちとの混血人種となってしまいました。さらにそのことによって、彼らは宗教的にもユダヤから離脱して、独自の教団を設立していたのです。ユダヤ人たちには、そのサマリア人のやり方は目に余るものでしたので、彼らはサマリア人を毛嫌いして、彼らとの交際を一切絶っていました。サマリアとは、当時はそのような、軽蔑の対象となるような場所でした。
 そしてそのサマリアに住むこの女性は、その軽蔑されている民族の中にあって、さらに疎んじられている女性であったと考えられます。なぜかと言うと、彼女はここで、昼間の正午ごろ、井戸に水を汲みに来たからです。この地方の気候は、ほとんど砂漠の気候と変わりません。日本もこの頃は温暖化で暑くなりましたけれども、しかしこの地域の暑さは、この私たちには経験できない程の厳しい暑さです。その暑さの中では、女性は普通、日差しを避けて、早朝か夕方に水を汲みに行くものです。そして「井戸端会議」という言葉が日本語にもありますように、女性たちは共同の井戸に集まって水汲みや洗濯をしながら、世間話やうわさ話などに花を咲かせるのですけれども、彼女はわざわざ一番暑くて、誰も井戸に近寄らない正午を選んで、水を汲みに来ていました。つまり彼女は、井戸端会議に入れない女性なのです。村の女性たちと、色々な情報交換や、悩み事の共有をしたりする、そういう仲間に入ることの出来ない孤独な女性が、彼女でした。彼女がそうやって仲間から疎外されている理由は、のちに明らかになります。

 サマリア人を毛嫌いしているユダヤ人であった主イエスは、しかし、かまわず御自分から彼女に声をかけられました。そこから主イエスと彼女との対話が始まります。7節後半から9節をお読みいたします。
「イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」
 主イエスは、わざわざ正午に水を汲みに来る彼女を見て、「水を飲ませてください」と、話しかけられました。彼女を上から下まで眺めて、「こんな時間に水汲みに来て、どうかしたのか」とは言われませんでした。主イエスはこの女性に自分から近づかれて、「水を飲ませてください」と、「あなたの助けが必要です」と語りかけられました。
 私たちは、人と初めて向かい合うとき、相手がどこ出身の、誰か?ということをとても気にします。私たちは相手の出で立ちや仕草などから、そういう情報を必死で読み取ろうとして、相手の身分を確かめてから、初めて会話を始めたり、心を開いたりしますけれども、主イエスは最初からとてもオープンに、彼女を懐に招いてくださいました。敵対するサマリア人の、その中のさらに疎んじられている女性なのだということが一目で分かる状況でも、主イエスはそれによって、彼女を裁いたり、断罪したり、彼女と御自分との間に壁を設けるということをされません。

 そしてこの主イエスの行動に、サマリア人女性はビックリして、「どうしてユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、水を飲ませてほしいと頼むのですか」と答えています。言葉を返しました。「水を飲ませてほしい」という何でもない会話さえも交わすことの叶わないような敵意と民族的隔たりが、ここにはありましたし、更に彼女は、自分がそうやって、「水をください」と突然気軽に声をかけてもらえるような、そんな人間ではないと、どんな人でも自分の前を、見て見ぬふりをして通り過ぎていくものだろうと、思っていたのだと思います。彼女はとても驚きました。

 けれども、そのあと主イエスが発した言葉は、彼女にとっては意味不明の言葉でした。水を飲ませてほしいとお願いをした主イエスは、そのあとすぐに、わたしがあなたに生きた水を与えようと、言い出すのです。彼女は、あなたは一体何を言っているのかと、言っていることの意味が分からないと、彼女はいぶかしげに答えています。彼女は、目の前にいる主イエス・キリストという方の不思議さに驚きながらも、今の自分自身が渇きには目を留めていません。むしろ渇いているのは主イエスの方だと彼女は思っていますし、客観的な状況から見れば、それは明らかです。最初、助けてくれと頼んで来たのは主イエスの方で、水を井戸から汲み上げるための道具と水瓶を持っているのは彼女の方です。さらに目の前にある井戸は、あの始祖ヤコブが掘り当てたとされる由緒正しき井戸なのです。11節から12節の御言葉です。
 「女は言った。『主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供も家畜も、この井戸から水を飲んだのです。』」

 そして、その彼女の言葉に対して、主イエスは、冒頭で紹介いたしました言葉、13節から14節の言葉を語られました。
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」
 主イエスの言われる水とは、サマリアの女が考えているような、ヤコブの井戸から汲み出す普通の飲み水のことではないということが、ここで明らかにされます。「いくら由緒あるヤコブの井戸からいくら汲んで飲んだところで、その水では人は誰でもまた渇くと。肉体の渇き潤す水はこの井戸の中にあるけれども、しかしあなた心の奥を満たす水は、このわたしから飲めると、その水は渇かない水で、あなたの内側で泉となって命を湧き出させる」と、主イエスは言われました。
 彼女はその主イエスの言葉に「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と答えますけれども、しかし彼女はまだ、その言葉の意味を理解していません。「ここにくみに来なくてもいいように」と言いながら、彼女まだ液体の水のことを考えています。「なんだかよくわからないけれども、でもイエスの言う水は良さそうだから、そんな魔法の水のような、渇かない水があるなら、何度もここに水汲みに来る必要もなくなるし、とりあえずもらっておこう」ということで、彼女は「その水をください」と答えました。

 主イエスは、はじめ彼女に声をかけられた時から、彼女のその心の中にある渇きを見つめておられました。全くの外国人同士で、話し合う必要も、その筋合いもないような、名も無き一人の女性に、主イエスは御自分から呼びかけ、そして井戸まで水を汲みに来た彼女が、本当に必要としていた水を、彼女の本当に渇いていたところに、流し込もうとされるのです。
 主イエスはここまでの対話で、民族の壁、宗教の壁、敵意の壁を乗り越えられましたが、今度もっと大きな壁に取り組んでゆかれます。それは彼女の心の中に築かれていた壁でした。主イエスは最後にその彼女の心の壁を開こうとされます。
 
 続く16節で、主イエスは言われました。
「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」
ある説教者は、「この言葉は、鋭いレントゲンの光のようだ」と言っていました。主イエスは、サマリアの女性の心の奥に踏み込まれて、そこにある渇きに、光を当てられました。この言葉は、彼女の心の深いところにまで達して、彼女の心の中にあった隠された秘密を撮影して、白日の下にさらすのです。彼女の渇きの源は、ここにありました。
 私たちは、自分自身の一番深いところにある本当に問題としなければならない問題に、敢えて目をつぶろうとします。その問題を見るのが嫌だからです。誰でも自分の中の渇いた部分を見たくはありません。つらくなります。ですからその問題を、本当は自分の問題なのに、他の人のせいにしてすり替えたり、あるいは神様のせいにしてしまうと言うこともあります。このサマリアの女性の姿には、自分の問題を、棚に上げして考えようとする何よりも私自身の姿が重なります。
 
 彼女は「わたしには夫はいません。」と、その心の渇きどころが露わになるのを隠そうとするのですが、主イエスは、「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と、彼女を見通されます。
 当時のユダヤ人の間では、離婚や死別などを理由として、3回までの結婚が認められていました。しかし、彼女には5人の夫があった。そして「わたしには夫はいません」とは、今現在連れ添っている男性は、その5人の夫とはまた別の、結婚関係にある男性ではないということです。これは当時において、とても不道徳な話でした。彼女が人目を避けて、わざわざ正午に水汲みに来た理由も、ここにあったと思われます。主イエスは、その彼女の隠された部分、人にも知られたくない、自分もそのやましさについては敢えてその是非を考えずに生きていたいと思うような、一番問題の部分に、そしてそれ故に、彼女にとっての一番渇きのあるところに、光を当てられました。実は彼女は心の奥にある渇きを知っていて、それを癒そうとして、しかしその癒しを、自分の内面と向き合うことでではなく、いつも相手の男性に求めながら、次々と連れ添う相手を変えていったのかもしれません。彼女は男性をとっかえひっかえ入れ替えながら、しかしそれによっては埋めることの出来ない心の空白があることに、自ら気付いていたのかもしれないと思います。
 どんなにその連れ添っている人を愛しても、どんなに人と結びつくことでその隙間を埋めようと思っても、それによっては満たされない渇きが、実は心の中にある。最愛の人でさえ、そこに入り込めないような、渇いた場所が、自分だけの孤独な場所というものが、自分の中にはある。しかし主イエスは、そこを見ていて、そこに来てくださるのです。
主イエスは聖書の他の箇所で「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」と言われました。病人が、医者の所に行っても、そこで傷ついた自分の幹部を見せなければ、医者は治しようがありません。主イエスは、御自分がその医者だと言われました。この方は、この私たちの患部を癒すために、一番治療の必要なところに、向き合ってくださる方として、私たちに呼びかけてきてくださいます。
 主イエスは彼女に、「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われて、主イエスは医者として、心には渇いた部分があっていいのだと、あなたはわたしの前には、渇きを露わにして良いのだと、そこをわたしに見せなさい。あなたを不安にさせているもの、一番水を必要としている渇いた部分を差し出しなさい、水を与えようと言われるのです。
そしてこのあと、主イエスとサマリアの女性との話題は礼拝のことに及ぶのですが、そういうありのままの私たちが、この心を裸にして神様に出会って、そこにある渇きを鎮めていただける場所こそが、この礼拝です。

 礼拝とは、どういう場所なのかというと、この主イエスと女性とのこういう出会いが、この私たちと主イエスとの間でも、同じように実現する場所です。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」と言われた、その主イエス・キリストが、私たちと心で出会ってくださって、心の奥の渇きを満たしてくださる場所が、この礼拝です。
私たちのこの心の渇きは、実際何によって満たされるのかというと、それは一言で言えば、優しくされることで癒されると思うのです。しかもその時の優しさとは、自分が孤独でないと感じることの出来る、優しさです。
 とても単純に考えて、自分が孤独で、自分が置き去りにされてしまうならば、そこに水を注いでくれる相手はいませんから、その心は水気を失うばかりです。
けれども反対に、自分のことを一人ぼっちに置き去りにしないで、側にいて優しく接してくれる相手がいつも確かにそばに居るなら、その時心は満たされて、孤独にならない。自ずと心に余裕が生まれ、元気も湧いてくるのだと思います。
 そしてこの礼拝で私たちが出会うのは、それをしてくださる主イエス・キリストです。その主イエスの姿は、この方が架かられた十字架を見ることで確認できます。主イエス・キリストは、十字架に架けられて、その息を引き取る寸前に、「渇く」と言われました。それはこの方が、神の独り子であられるにもかかわらず、私たちの心の奥深くの、渇いた部分にまで届いて来られて、その渇きをこの方も味わって、この方はそこに共感できる、ということを意味しています。この方は、私たちの渇きが、それがどんなに深く苦しい渇きであっても、それを知らない方ではない。それを知っていてくださる。そして十字架で、その渇きを、一緒に渇いてくださったのです。
 イエス・キリストは、なぜクリスマスにこの地上に生まれて、十字架に架かられたのかというと、その目的は、この私たちに寄り添ってくださるためです。それが、この聖書において、福音と呼ばれていることです。ある説教者は、主イエス・キリストのことを指しながら、こう語っています。「福音の良き知らせとは、神は私たちの苦しみを取り去るためではなく、その一部になりたいがために、来られた、ということです」と。
聖書が語る神様は、全てを自由自在に操る強烈な力を持っていて、それで欲しいままに振る舞うような、そういう神様ではありません。むしろ聖書が語っています神様はその逆で、私たちの一番弱いところ、寂しいところ、この心の渇いた奥底にも、とことん寄り添ってくださる神様。そこにある痛みに共感し、丁寧に愛を注いでくださる神様です。
ここには、この神様との、本当にこの心を温められる出会いがあり、安心して渇いた心を開くことの出来る通じ合いがある。私たちはここで、私は今一人ではなく、孤独でもなく、今神様に呼びかけられて、目を留められて、この心に、あなたを支える命の水を注ぎたいのだと言ってもらえるような、神様にとって、私は、そういう大切に愛されている私なんだという、本当に心に力がみなぎるようなこの事実を知らされて、安心して新しい一週間を踏み出すのです。
 名もない、小さな、ひとりの私に、人知れず、心に渇きを覚えてここに来た私たちに、目を留めて、その心を、私の命の水で満たしたいと言ってくださる主イエス。そして事実として十字架に架かって死んでくださり、御自分の命を、この私たちを生かすために、注ぎ切ってくださった主イエスに、私たちも今、出会いたいと思います。

祈り
 今朝、ここに、私たちの知らなかった、全く新しい出会いが示されました。新しい出会いがある時、私たちは緊張して、自分の中の弱さや渇きを相手に悟られないように隠します。けれども主イエス・キリストは、私たちの渇きの一番深いところで、私たちの一番恥ずかしいところで、出会ってくださり、そういう私をも、喜んで受け入れてくださる、そこに、ただの水ではなく、命の水を注いで、力を与えてくださる方です。主イエスが、私たちを救うために、色々な壁や、この私の古い自分を切り崩して、この心にまで入ってきてくださいますので、感謝いたします。自分ではどうにも、ふたをして隠すことしかできないような、何ともしがたい渇きをそれぞれ抱いている私たちですけれども、そこを癒してくださる、主イエスからの水を、求めたいですし、サマリアの女性のように、その水を求めることが出来るように、これからも味わっていくことができるように、導いてください。主の御名によって祈ります。

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