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 はじめての方のための聖書のお話, 2015.03.31 Tuesday, trackbacks(0), by:sendai-canaan


 私は両親がクリスチャンの家庭に育ちました。小さい頃から、聖書のことは聞いていましたが、中学生から大学2年生の頃まで、私は教会にはいかず、キリスト教とはほとんど無関係な生活をしておりました。
 そんな私でしたけれども、あるきっかけがあって、教会に通うようになりました。そのきっかけは、バイクの交通事故でした。私は、学生時代、中型のバイクに乗っておりまして、ある日、アルバイトの帰りに交通事故に遭いました。
 何とか命は守られましたが、けががありましたので、しばらくは何もできない状態で、家にいました。そのときに、何もすることがないので、親に誘われ、教会に行ってみたんですね。そのときは、ずっと通うつもりはありませんでしたが、不思議と教会に通うようになりました。
 そして教会に行く中で、確かなものっていうのはあるんだな〜というのがわかったんですね。「何のために生きるのか、何のための人生なのか」その答えは、わからなかったんですけれども、教会に行くようになって、わかった、と知らされて、本当にうれしかったんですね。
   確かなものがあるんだ、そういう確信ですけれども、これは今日の題名にありますように、「死のかなたには希望があるんだ」っていうこと、これも確かなことのひとつです。
 今日お読みしました、新約聖書の箇所は、そのことをはっきりと言っております。今日は、その出来事の一部分だけをお読みしましたが、死で終わりではない、そのことを今日のこのエピソードの全体をまずお話をして、それからこの物語が何を、私たちに伝えようとしているのか、それをご一緒に確認していきたい、と思います。 
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 はじめての方のための聖書のお話, 2015.03.30 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
 

 わたしは、この教会の牧師の國安光と申します。2011年8月に仙台にまいりました。わたしは約25年くらい、東京で生活をしていました。わたしが聖書を読むようになったのは、大学生時代でした。
わたしは、学生時代、イタリヤ料理のコックさんになりたいと思っていたことがありました。大学生1,2年生の頃でした。いつか自分のお店をもって、人を喜ばせる人になりたい、そんな夢を描きながら、レストランでアルバイトとして、下働きをさせていただいていました。

 その頃、夢に向かって、働いて、勉強をして、充実した毎日を過ごしていました、でもいつも心にモヤモヤしたものを抱えていたように思います。わたしは、いつも人の目を気にして生きていました。人から見て自分はすごい人なんだろうか、輝いて見えるだろうか、そんなことばかりを気にしていました、きっと不安だったからだと思います、なんのために生きているのか、真面目に考えたことはありませんでした。でも、何かモヤモヤとしたものを、ずっとかかえていました。イタリヤ料理をしたいと思ったのは、そういう不安から逃れたい、どこかで思っていたからだと、いまは思います。

 あるとき、わたしは、アルバイトの帰りに、当時乗っていたバイクで交通事故にあいました。わたしは体をうち、2ヶ月くらい、療養生活を送りました。それから、何もできない期間がありました。そのとき、大きな不安がやってきました。「動けない、おれは、なんのために生きているんだ。なんのために存在しているんだ。」そのとき、蛇口から水が噴き出すように、これまで隠してきた不安が、一気にやってきたんですね、

でもそこではじめて自分と向き合うことができました、これまで何のために、料理をがんばってきたのか、人の目ばっかり気にして、だれかと比べて、自分を魅せたいだけにやっていたんじゃないか、結局は自分を愛せなくって、誰かに認めてもらって、そこで安心を得たいただけだったんじゃないか、そのこと気づかされたんですね。自分の存在がとてもむなしく感じました。自分は何のために、生きているんだろうか・・
 
 それから、教会に行くようになりました、わたしはそのときに感じた、礼拝の不思議なあたたかさ、自分が自分でいられる、そういう温かさを、いまでも覚えています。それから、だんだんと聖書に証されている、「神様」の存在を考えるようになりました、そして聖書を通して、生きる意味、生きる喜びとはどこにあるか、ということが、だんだんとわかるようになっていきました。
こうしてわたしは、この聖書のすばらしい情報を伝えたい、一人でも多くの方に、神様がくださる、生きる喜びを届けたい、思いまして、神戸にある、神学校に入学をし、それから約3年半後、牧師として仙台にまいりました。わたしは、この聖書の「喜び」を仙台の地でぜひ伝えていきたいと思っています。今朝は、その「喜び」について教えているひとつの物語から、お話をしたいと思います。

 
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 はじめての方のための聖書のお話, 2012.04.30 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
ヨハネの手紙毅款錬后腺隠粟瓠
「生きている、ただそれだけで」 國安 光 牧師
 


 本日は、ウェルカムサンデーにようこそおこしくださいました。ウェルカムサンデーといいますのは、「ウェルカム」(日本語で、歓迎する、喜び迎える)、の、サンデー(日曜日)。つまり、教会がはじめての方を歓迎する礼拝です。
 このようにいいますと、ある方はこうおっしゃられるかもしれません。「今日がウェルカムだとすると、はじめての方がこれるのは今日だけで、他の日曜日は来ることができないのか」と。決してそんなことはありません。毎週ここで行われているどの礼拝も、どなたでもウェルカムです。キリスト教に熱心な方だけではなく、キリスト教にあまりに馴染みのない方でも、他の宗教をもっておられる方でも、どなたでもウェルカムです。年齢に関しても、お年を召した方から赤ちゃんまで、どなたでもウェルカムです。礼拝をささげるのに、年齢制限もありませんし、何か特別な資格がないといけないということも決してありません。

 じゃあなぜ「ウェルカムサンデー」なのかといいますと、教会がはじめての方にとっては礼拝において、どうしても言葉がわかりにくいところ、雰囲気がなじみにくいところ、賛美歌が親しみずらいもの、いろいろあると思うのです。キリスト教主義の学校に通っておられる方や、卒業された方なら、なんとなくは入っていけると思います。けれどもそういう経験がない方の場合は、なじみにくい、親しみにくい、これが正直なところだと思うのです。私たちの社会において、そもそも宗教は受け入れられにくいものですし、日ごろあまり使わない「神様」という言葉が礼拝の中ではたくさん出てくるわけですから、はじめての方にはきっとついていけないな〜と感じられることが多いのではないかと思います。

 ですから、私たちの教会では、そのような方々のために、できる限り、わかりにくいところを、わかりやすく、なじみにいくいところを、なじみやすくして、教会がはじめての方々にも親しんでいただける礼拝をし、礼拝の中にある安らぎや喜びを少しでもお届けしたいと願って、ウェルカムサンデーを行っています。ウェルカムサンデーが、みなさまにとって、礼拝は難しい、堅苦しい、こういう思いを少しでも解消できる機会となり、また礼拝において与えられる安らぎを少しでも感じることのできる機会となっていただければ、幸いです。

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 はじめての方のための聖書のお話, 2009.05.31 Sunday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
 マタイによる福音書9章18〜26節
「一番つらいところに愛を」 吉岡契典牧師

 私たちは日頃、そして今の時勢では特に強く、解決というものを求めている。あるいは問題を解決してくれる人を求めているのではないかと思います。社会のこと、政治経済のこと、生活のこと、将来のこと、生き甲斐や、希望についてなど、色々なレベルで、枚挙にいとまがないほどに、私たちの周りには、解決されなければならない問題が山積しているように思えます。このままでは良くない、このままでは地球は危ない、このままでは生活が危ういという声ばかりがあちこちから聞こえてくるのですが、しかしその問題解決は、どこにおいてもほとんど見えきていないように思われます。

 「Yes, We Can」というあの言葉は、「解決可能だ」という掛け声だったと思うのですが、アメリカの大統領が替わったり、ある政党の代表者が替わったりしましたけれども、私たちは新しい政治家が出てくる度に、この人は本当に我々の問題を解決しうるのかという目で、テレビ画面に映るその人を眺めます。しかし昨日は、韓国の盧武鉉前大統領が自殺をしたというニュースも流れました。本来解決を与えるべき立場にいた政治家の一人が、しかし問題を抱えて、行き詰まりを感じて、自殺というかたちの解決の道を選んだしまったということが、私にはとても悲しく感じられました。

 解決というものは、本当にあるのでしょうか?それがあるとすれば、解決は一体どこにあるのか?一体誰が私たちの問題を解決してくれるのでしょうか?

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 はじめての方のための聖書のお話, 2009.03.18 Wednesday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
ウェルカムサンデー 詩編139編1〜24節 
 「確かなあなたになるために」 吉岡契典牧師

 今朝は、赤石先生によるメッセージを期待して集ってくださった皆様には申し訳ないのですが、急遽赤石先生が仙台に来ることが出来なくなってしまいましたために、今朝は代わりに私がウェルカムサンデーのメッセージを語らせていただきます。赤石先生はまた次の機会にこの教会に来てくださると思いますので、その時を楽しみにしたいと思います。
 そこで今朝は、せっかく赤石先生が「確かなあなたになるために」というテーマを掲げてくださいましたので、そのお題をいただくようなかたちで、私なりの切り口でこのテーマについて語りながら、皆様とも御一緒に考えてみたいと思います。

 赤石先生が掲げてくださった、この「確かなあなたになるために」というこのテーマは、とても興味を惹き付けられるテーマだと思います。なぜならこのテーマ設定の背後には、あなたが、私たちが、確かな私になれていないという前提があって、その確かでない自分という点で、私たちはこのテーマに共感を覚えるからです。
 
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 はじめての方のための聖書のお話, 2008.12.29 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
リース
 「クリスマスの第一発見者」 吉岡契典牧師
 私がクリスマスを考える時に大切だと思っていますことは、このクリスマスという出来事は、単なる昔話や、おとぎ話なのでもなくて、今の自分に関係のあることなのだと知ることだ、と思っています。私たちはよくメリークリスマス!と言いますけれども、メリーとは、嬉しい、楽しいという意味です。でもこのクリスマスが、自分に関係のないことだったとしたら、クリスマスは別にメリーでも何でもないのだと思います。
 今晩はこのクリマスが、誰のための者なのか?今日の、この朝のクリスマスが、誰に向けられた、誰向けのものなのか?ということを聖書から改めて知らされたいと思うのですけれども、そこでここでは、クリスマスの第一発見者に注目してみたいと思います。
 
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 はじめての方のための聖書のお話, 2008.12.29 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
マタイによる福音書1章18〜25節 
 「引き受けてくださる父」 吉岡契典牧師

 先週ある雑誌に、「再度、『自己責任』という言葉を問う」という記事が出ていました。そこにはこうありました。「一体、私たちはどこに向かおうとしているのだろう。すべてが『自己責任』なのか。来年までという契約をこの年の暮れに破棄され、職と住居と、明日からの暮らしを土台から奪われるのは、働く者の『自己責任』なのか。老いて、介護が必要となったことも全て『自己責任』なのか。『たらたら飲んで食べた』覚えはないが、ある年代になって病を得ることも、すべて『自己責任』だというのか。」
 本当に、最近どんどんと、世知辛い世の中になってきていると思います。自己責任という言葉が、人を切り捨てる口実として使われ、責任放棄や責任転嫁を助ける言葉として用いられています。そんな中で、私たち自身の心も、そういった方向にどんどん引きずられていっているのではないかと感じています。何らかの失敗を犯してしまったと見える人に、冷たく当たってしまうことがあります。私たちは、その人が困っているのかいないのかというような、その人の体温を気にするような視点で人を見るのが難しくなっていると感じます。善悪を判断する目で、失敗したのか成功したのか、そういうテストを人に課すような冷たい目で人を見てしまうことがあります。そういう見方で人を一方的に評価して、何かこちらからの理由を付けて、あなたは間違っている、そしてそれはあなたの自己責任だと裁き下すことは、簡単です。しかしそれは、裁かれてしまった側の自己責任と言うには、ちょっと違う。それは自己責任には当てはまらないと思います。
 しかしそういう風な、抜き身で斬りつけ合うような、人間同士の傷つけ合いや、分裂が広がっているような今の世の中ですが、クリスマスには、そのような冷たい意味ではない、愛に基づく責任感が、美しく働いているのを、私たちは見ることができます。


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 はじめての方のための聖書のお話, 2008.09.29 Monday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
ヨハネによる福音書4章1〜26節 
 「渇きが満たさるために」吉岡契典牧師

今朝はようこそ、仙台カナン教会の礼拝においでくださいました。心から歓迎いたします。
 今朝の礼拝メッセージのテーマは、「渇きの満たし」です。9月も、早くももう終わりで、最近ではもう寒いぐらいですから、私たちが今朝のテーマの渇きについて、今のこの気候からそれを実感しているということはないかもしれませんが、けれども今朝ここで皆様と御一緒に考えたいことは、私たちのこの心の渇きについてです。普段はあまり、自分の心が渇いているのかどうかなどということは、特別考えないことかもしれませんが、今朝は改めて、自分の心に手を当ててみて、果たして自分のこの心は、渇いているのか、潤っているのか、自分にはどんな渇きがあって、そしてそこにはどんな潤いが必要なのか、改めて、立ち止まって考えてみたいと思うのです。

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 はじめての方のための聖書のお話, 2008.05.28 Wednesday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
マタイによる福音書25章31〜40節 
「隣人になる〜人と隣り合うこと〜」吉岡契典牧師
 
 今朝の礼拝のテーマは、「隣人」というテーマなのですけれども、これは普段はあまり使わない熟語だと思いますが、私たちは「隣人」という言葉を考える時に、またこの「隣人」という言葉が示すように、「人と隣り合う」ということについて考える時に、私たちはそれを普段どのように捉えているでしょうか?
 あのノーベル平和賞を得た、有名なマザーテレサは、先程朗読された聖書の言葉に語られていました教えそのままに、「最も貧しい人の中にキリストがおられる」とか、「神は苦しむ人の姿を取っておられる」という言葉を繰り返し語りながら、そこに神様の存在を彼女は常に見るようにしながら、インドの貧しい人々の中に積極的に入って行き、その人々の支援のために生涯を捧げました。マザーテレサは、初めてインドのカルカッタの道ばたで、そこに死にかけている人を見たときに、自分はあの人たちのそばにいたい、と心から願ったそうです。私たちに、隣人をそのように見つめる目はあるでしょうか?

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 はじめての方のための聖書のお話, 2007.11.27 Tuesday, trackbacks(0), by:sendai-canaan
マタイによる福音書27章45〜56節
 「自分を傷つけなくてもいい生き方」吉岡契典牧師 
 
 傷は誰にでもあります。これは、体に切り傷がついている、どこかを怪我したとうことではなくて、心の怪我という意味での、心の傷です。私たちの知っているすべての人は、皆傷ついている人です。皆さんも傷を持っている人ですし、私も傷ついています。誰にでも傷はあります。そして私たちにとって、この傷という言葉ほど、身近な、自分に密着している言葉はないのではないかと思います。実際、私たちが日常的にしゃべったり考えたり行動したりしていることの中の多くの部分は、私たち自身が持っている傷と関係しているのだと思います。色々な傷が、今のわたしを造り上げている。私が抱えている色々な傷が、今のわたしの考え方や行動を導いて、方向付けているようにも思います。
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