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フィリピの信徒への手紙2章1〜4節
「きれいごとではなく」 吉岡契典牧師
なぜ私たちは、日曜日に教会に集まらなければならないのでしょうか?なぜ家で聖書を読んでいるだけではダメなのでしょうか?教会に行かなくても、自分だけで神様と向き合い、聖書について学んでいれば事足りるではないか。そう思うことがないでしょうか?私もかつて、そう思っていた時期がありました。
教会に行っても楽しいわけではなく、むしろつまらない、というか辛い。牧師の話もよく分からない。牧師になって、こういうことを訴える立場から、逆に聞く立場になりました。今は、教会は楽しくないとは思っていませんが、そう言いたくなる気持ちもよく分かります。確かに歓楽のような楽しさは教会にはありません。それを求めているならば、もっと他のところに行った方がそれをよく味わえます。また聖書のことがよく分かるということだけを考えるならば、教会に来て週に一度のたった30分の牧師の説教を聞くよりは、自分の興味あるところからどんどん自分で勉強していく方が、ずっと聖書についてよく分かるようになるだろうと思います。
ではなぜ教会に行くのでしょうか?それは、そこで恵みを受けられるからです。教会でこそ、キリストについて、その愛について、ただ知識としてそれを知るのではなくて、言わばキリストという方の肌触りであったり、キリストの愛というものの持つ温度や暖かさであったり、恵みという言葉が具体的にはどういう形をしているかなどという、そういう、言わば具体的な手触りの部分が得られる。それは教会でこそ、そこでの他の信仰者との交わりの中でこそ明らかになるのです。そういう意味で、教会は恵みの現場です。
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フィリピの信徒への手紙1章27〜30節
「苦しむという恵み」 吉岡契典牧師私は、病院に入院された方をお見舞いに行く時に、その枕元でよく読む御言葉があります。それは、ローマ書の6章の御言葉です。そこにある「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」という言葉を読んで、お祈りをします。
キリスト者にとっての、キリストに頼みを置く者にとっての一番危険なことは何かというと、それはクリスチャンとして失敗したり、罪を犯したりすることではありません。それよりももっと危険なことがある。それは、神様から心が離れること。神様の愛がわからなくなること。罪深いこの私でも、しかしこの何度も罪を犯すこの私こそが、神様によって赦され愛されているのだということが、分からなくなることです。
入院するような病を得たり、簡単ではない苦難に遭ったりすると、この事が分からなくなりやすいのです。しかし自分が神様の恵みの下にいることを信じられなくなるということは、クリスチャンたちの前に待ち構えている大きな罠であり、最大の危険なのです。私たちに対して神様の恵みは尽きません。私たちはその中を歩んでいます。
今朝の御言葉で、パウロは27節で、開口一番「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」と語っていますが、このキリストの福音にふさわしい生活とは、恵みの下に留まり続けて、恵みの下で歩み続けるという生活です。どんなに苦しいことが目の前に迫っても、しかしそこから決して落ちないようにとパウロは思いを込めているのです。
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【日曜学校】9:00〜10:00
子供たちと一緒に、歌(賛美)を歌ったり、聖書のお話を聴いたり、遊んだり。
お父様、お母様方もご一緒にどうぞ♪
【朝拝】10:20〜12:00
旧約聖書箇所:詩編133編1〜3節
新約聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1〜4節
メッセージ:『 きれいごとではなく 』 吉岡 契典 牧師
※朝拝の中で聖餐式が行われます。
※礼拝前の10:05〜10:15には、礼拝の中で読まれます信仰問答書を
牧師先生が分かり易くショート解説されます。
※礼拝後、ホッと一息、茶菓を食べながら団欒のコーヒータイム、
そして月に一度の男子会・婦人会・青年会とグループに分かれての交わり会もございます。
【夕拝】19:00〜20:00
聖書箇所:列王記 上(旧約聖書)9章1節〜10章13節
メッセージ:『 伝道 』 吉岡 契典 牧師
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フィリピの信徒への手紙1章12〜26節
「生きる理由」 吉岡契典牧師
今朝お読みした御言葉の中には、驚くべき言葉があります。聖書には、何ともびっくりするような、そういう意味でとても心に引っかかって忘れられなくなるような、そんな言葉がいくつもありますが、このパウロの言葉はその一つだと思います。それは、21節の御言葉です。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」この手紙を書いたパウロは、続く22節23節でさらにこう語っています。「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」私は、初めてこの言葉を読んだ時驚きました。その時にはまだ、この言葉の背後にある深い意味については分かりませんでしたが、「死ぬことは利益なのです。」「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、その方がはるかに望ましい。」という、こんな言葉が聖書に書いてあっていいのかと、聖書がこんな言葉を載せてしまっていいのかと驚いたのです。この言葉は、表面的には至ってドライな言葉だなと感じましたし、しかしこの世の生にこだわっていないという点で突き抜けているというか、見えている景色が違うというか、自分とは別次元の人間の言葉なのかなと思いました。
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フィリピの信徒への手紙1章7〜11節
「神の仲立ち」 吉岡契典牧師
私が信仰を与えられて本当に良かったと感謝していることのひとつは、それによって友人が増えたことです。私は、生まれ育った地元の友達に限らず、自分と同年代であるかないかに関わらず、そして日本人に限らず、さらには過去に生きた歴史上の人物であるか、今生きている人であるかにも関わらず、信仰を持つことによって色々な人との出会いを与えられ、色々な人と繋がりを持つことを許されてきました。その繋がりは、これからも今以上にもっと豊かに与えられるだろうと思います。そしてそれは、私が信仰を持ってからすごく社交的になったとか、そういうことではもちろんなくて、全てイエス・キリストが仲立ちしてくださるからです。普通だったら話も出来ないような人でも、私がイエス・キリストに繋がっていて、その人もイエス・キリストに繋がっているならば、そこで接点ができる。そのキリストが腰の帯紐になってくださって、両者を結び合わせてくださる。まだ顔を見たことのない様な人でも、キリストがその人と私を引き合わせてくださる。
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【日曜学校】9:00〜10:00
子供たちと一緒に、歌(賛美)を歌ったり、聖書のお話を聴いたり、遊んだり。
お父様、お母様方もご一緒にどうぞ。
【朝拝】10:20〜12:00
旧約聖書箇所:詩編25章1〜22節
新約聖書箇:フィリピの信徒への手紙1章3〜18節
メッセージ:『 神の仲立ち 』 吉岡 契典 牧師
※礼拝前の10:05〜10:15には、礼拝の中で読まれます信仰問答書を牧師先生が分かり易くショ ート解説されます。
※礼拝後、ホッと一息、茶菓を食べながら団欒のコーヒータイムもございます。
【夕拝】19:00〜20:00
聖書箇所:列王記 上(旧約聖書)8章1〜66節
メッセージ:『 約束と実現 』 吉岡 契典 牧師
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フィリピの信徒への手紙1章1〜6節
実はこのフィリピの信徒への手紙を説教することは私にとっては念願でしたので、これからこの手紙を読み進めていくのを私は非常に楽しみにしています。私には、このフィリピの信徒への手紙に対して、特別な思いがあります。それは、このフィリピの信徒への手紙の御言葉に導かれて、私は牧師として献身することを決意したからです。それも私はこの手紙を通して、嫌々ではなく喜んで、その決断をするということへ導かれたからです。自分は牧師になるということに対して、その志を持ち始めた最初の頃は、私はそのことをもって、何かとてつもなく大変で、苦労の多い道に入るのではないか、牧師になることによって、自分はとても背負い切れないような重い十字架を背負うことになるのではないか、とても極端な話、自分は聖職者になることによって、もう心の底から笑うことができなくなってしまうのではないかとまで考えて、その道を望み、そこに自分の生き方があると確信しながらも、自分が献身者と呼ばれる立場になるということに対して、不安と、恐れと、何か歯を食いしばってわざわざ茨の道を歩んでいかなければならないことのような、そういう悲愴感を覚えていました。けれども、そういう私は、このフィリピの信徒への手紙の御言葉を通して、献身ということの何たるかを知りました。献身とは、悲愴感を持ちながらするようなものではないのです。それは喜びの中に入っていくことです。
「仲間への手紙」 吉岡契典牧師
2007年の初めから、私たちは3年間にわたってヨハネによる福音書、ヨハネの手紙、それからヨハネの黙示録と、連続してヨハネの文書を読んできましたけれども、今朝からは、このパウロが書き記しましたフィリピの信徒への手紙を読んでゆきたいと思います。
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ヨハネの黙示録22章6〜21節
「主イエスは来られる」 吉岡契典牧師
この新しい年を、今年もまた私たちがこの礼拝を生活の中心に据えながら始めることのできます幸いを感謝いたします。新年というものは、気持ちの良いものだと思います。新春という言葉は気持ちの良い言葉です。かつて、小学校の頃まで、お正月になると毎年郊外の自然の多く残っている祖父の家におせち料理を食べに行き、お年玉を貰い、そのついでに犬を連れて裏の河原に凧あげに行ったのを思い出します。お正月の、寒いですけど天気のいい、そういう空を見ると、凧をあげたくなります。
そして、こういう爽やかな、今年初めの礼拝で読まれましたのは、このヨハネの黙示録の最後に位置する、図らずも、聖書が最後に語っている言葉です。年の最初の礼拝に、聖書の最後の言葉を読むということは、とても意味深いことだと思います。なぜなら、最初と最後という事柄は、とても深く関係している事だからです。最後には最初の事を思い、最初には最後のことを思う、ということがあります。年末年始とは、そういう時でしょう。
年末には、今年一年、色々あったけれどもここまでよく支えられたなあと思います。そして今日のような年始には、これからのこの一年にどんなことが待っているのか、来年の1月には、私はどういう風にその時を迎えるのだろうかなどと、色々考えます。そして今朝の御言葉は、そういう私たちへの、とても具体的な励ましになる御言葉です。



